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【エッセイ】蛙鳴雀躁 No.11

 テレビがまだ全世帯に普及していなかった昭和30年代。
 甲子園球場の内野席、外野席を問わず、観戦客のほとんどが男性で埋めつくされていました。同じ年ごろの男の子や女性と隣り合わせになった記憶がありません。

 海軍の下士官だった父は女たらしの、どうしようもない男でしたが、叱られたことは1度もありません。そんな父を、母は、「このコが欲しいゆーたら、あんたは、毒でも飲ます」と言っていました。
 寡黙で、いつも不機嫌な父でしたが、なぜか、甲子園に行くときは私をお供に連れて行くのです。
 野球のルールの説明はいっさいなし。
 最初のうちは、白い開襟シャツのオジサンたちの谷間で、背もたれのないベンチにすわり、ぼーっと見ていました。
 それでも、タイガースが打てば、いやでもわかりました。ラッパや太鼓の音に加えて、天地を揺るがすような男たちの歓喜の雄叫びが、球場にこだまするからです。

 対巨人戦は、ほぼ満席になり、熱気というより、ヤクザ映画で見る〝出入り〟の雰囲気でした。とくに外野席は、阪神ファンと巨人ファンが混在して座っているのでしょっ中、殴り合いの喧嘩がはじまるのです。仕掛けるのはたいてい、阪神ファン。向かい側の内野席にいても、何が起きているのか、見分けられるほどオジサンの集団が揺れ動くのです。乱暴狼藉を働くオジサンたちの大半は、手ぬぐいをハチマキにし、ステテコに腹巻の戦闘着。
 不倶戴天の敵、親の仇のように阪神ファンは巨人軍を思っていました。太閤さんの時代から、関西人のDNAには関東人への対抗心が脈々と受けつががれているのかもしれません。
 長嶋選手や王選手の人気は絶大で、日本中に、その名が轟いていても、阪神ファンはおかまいなし。
 野次りたおすします。
 三振でもしようものなら、「あんた、泣いてるのね」と、当時の流行歌のひと節を真似てからかうのです。
 5万人に聞こえる野次。
 声のよく通る、オジサンが大勢いました。
 走塁にもたけ、フェンスを乗りこえグランドに侵入し、走り回り、球場の職員を手こずらせるオジサンもいたし、新聞紙を丸めて火をつけ芝生を燃やしたオジサンもいました。
 阪神が敗けようものなら、オジサンたちは一丸となって、一升ビンや空缶、新聞紙や傘など手持ちのものをグランドへ投げこみます。それでも足りずに、球場を後にする巨人軍選手が乗車するバスを取り囲み、罵詈雑言のアラシ。

 阪神VS広島戦ともなると、もはや収拾のつかない状態に。ちょっとでも自軍に不利な判定があれば、両軍の選手がダッグアウトを飛び出し、もみ合いになります。頭の血が沸騰した観客は総立ちになり、喚き散らします。
「どこに目ェつけとんじゃーッ!!」
「いてもたれーッ!!」
 もはや、究極のエンターテイメント。
 気づいたときには、野球のルールを覚えていました。

 当時、試合前に、座布団を100円で借りて、試合後に返すと100円がもどってくるシステムになっていましたが、座布団を返すオジサンはほとんどいませんでした。勝っても敗けても、ライトで浮かびあがった緑の芝生のグランドへむかって、座布団を投げこむのが慣例でした。
 360度ある観客席のすべての方角から紺色の正方形の座布団がくるくる回りながら飛んでいくのです。客席の最上段にいるオジサンたちの力投は半端じゃなかった。私の頭の上を舞い落ちていくさまを、子供心に、うつくしいと思いました。
 父はけっして投げませんでしたが、返却することもありませんでした。宙を舞う座布団を、じっと眺めているのです。

 昭和20年(1945年)8月に敗戦。それからわずか十数年。 戦場を体験したオジサンがほとんどだったのではないでしょうか――。
 父もふくめて、阪神ファンにとって、巨人は、その名称からして、鬼畜米英を肩代わりしている存在に見えたのだと思います。
「上品ぶりやがって、エエかっこしやがって、クソッタレが! 忘れたんか、仰山、死んだのにヘラヘラしくさって」
 常勝軍団とは裏腹の負け組を応援する男たちは、目に見えないキズナで固く結ばれていた気がします。

 世間では昔も今も、巨人ファンはお上品で、阪神ファンはガラがわるいとされています。
 東京在住の姪は、東京ドームでも、阪神ファンの野次は聞き苦しいと言っています。
「ほんま、すごいねんデ。※※へ帰れーっとか平気で言うねん」
 男言葉の猛々しい関西弁を、私は球場で学びました。
 かつて首都の編集者さんから、小説の関西弁が汚いと、言われました。
 そのときは、恥ずかしくて消えてしまいたいと思いましたが、この年齢になって考えると、ひねくれ者の私はムカツクわけです。 「標準語しか書いたらあかんのか? 関東弁がなんぼのもんじゃい」と、なぜ、言い返せなかったのか、無念です。痛恨の極みです。

 巨人ファンの夫とテレビを見ても、喧嘩になることはありません。
 若い女性や赤ちゃんを抱いた女性のいる観客席に時代を感じます。いつから、こんなに楽しげな光景になったのか?
 若い頃、「戦争を知らない子供たち」というフォークソングが流行りました。
「戦争を知ってるオジサンらを知っとうデ」と言いたい。
 小学生だったのですが、欝屈した男たちの咆哮を、いまもはっきりと覚えています。
 1950年の朝鮮動乱を契機に、戦後復興がはじまりました。高度成長期の成果は、死に物狂いで働いたオジサンたちによって良くも悪くももたらされたのです。私たち団塊世代は、手ぬぐいで顔を隠し、「安保反対!」を連呼し、ヘルメットと棒きれで暴れましたが、いまや社会のお荷物。

 私が話しだすと、夫は居眠りをはじめて、見ざる、聞かざるになり、娘たちはいつのまにかいなくなっています。夫は、「忍者みたいやな」と言います。
 家族が話を聞いてくれないので、ここでしゃべりたおすしかないわけです。

 本日もお騒がせしました。


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