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【 エッセイ】蛙鳴雀躁 No.27

「ぺてん」を投稿して4日経ちました。お目通しいただいた方に心より、感謝申し上げます。何度か、読み返すうちに、長年の固定概念に気づかされました。noteと出会って、自由に思いのままに書いてもいいのだと、頭ではわかっているのですが、心理学でいうところの「超自我」に思考が阻まれていると感じてしまうのです。

 無心になって、書いているつもりなのに、何かが邪魔をしてしまう。それが、世間の常識であったり、子供の頃の家庭環境であったり、日常の些末な雑事であったり、過去の執筆経験だったり……。

 元原稿を書き直すとき、男性三人に女性一人の人物設定は当初から決めていました。問題は、その女性です。男性三人を手玉にとるのだから、最初は、四十代の熟女で書きました。こういう設定でないと、受け入れられないという思い込みからです。「コーベ・イン・ブルー」の元原稿の掲載誌も、主人公の男性は代理店に勤める大卒のイケメンでした。主人公が関係をもつ相手は、仕事のできる四十近い女性だったのです。編集者さんが誉めてくださったこともあり、オバハンであっても、ムチムチでありさえすれば、カップルになれるのだと、そのとき、錯覚してしまったのです。

 この手の小説を書く場合、モテ女を自認していた母の容姿をモデルにしていました。ちなみに、書き直したとき、登場する女性上司の容姿ですが、母はエラの張ったブサイクではありませんでした。年齢も十歳から十五際くらいは若く見られていました。ウチの姉二人は近所でも評判の美人でした。彼女たちと似ていないと面とむかってよく言われたものです。美人の女性を描く場合、この三人のうちのだれかの容姿をモデルにしていました。いまもですが。

 書けなくなった原因はここにあったというのに、なぜか、同じ過ちを繰り返してしまいます。

 今回も、自分に正直でないと思い直し、色気満載のオバハンを引っ込めたまではよかったのですが、noteの他の方の恋愛小説を読ましていただくと、ほぼ男性と女性の組み合せです。そして、それを多くの方が好んで読まれておられます。

 やっぱり、そうなのかと気落ちするわけです。

 男同士のカップルと言っても、男と男ならだれでもいいというワケではありません。テレビドラマで、オジサン同士のカップルの日常を描いた話を一話だけ見たのですが、ストーリーはおもしろいのですが、たのしくない。

 なぜか! 美しくないので陶酔できない。

 LGBTって、そういうこと??と思ってしまう私は、同性愛者の方から袋叩きにあいそうです。

 で、二度目に、少年に近い女の子に変更したのですが、ナニかがちがう。気に入らない。体型は私の若い頃のまんまを書いたのですが、モテ期などなかったことを思い返せば、オジサン三人を惹きつけるのはまず無理な話。そもそも十代で、夫のアパートに転がりこみ、むりやり結婚にこぎつけたわけですから、男性にとっては天敵にひとしいタイプの女なわけです。居座って出ていかないんですから、もうどうしようもない。

 私がなぜ、「イバラのお恵」と親族に言われたのか。木の枝のような肉なし女が、トゲのある言葉しか吐かなかったからです。

 百歩ゆずって、少女漫画に出てくるような美少女を登場させればいいのですが、男言葉を使う美少女を出すくらいなら、美少年にしたい。結婚後も、BL漫画やその種の映画や書籍の大ファンだった私は、「アラビアのロレンス」を七回、見ました。美形の主演男優二人の交わす熱い眼差しにときめきが止まりませんでした。

 子供で結婚した私は、中間の時代――恋に悩むうら若き女性の時代がなかったせいか、男女が結ばれる話や別れる話は、親戚中の男女のいざこざを見聞きしすぎたこともあってか、関心がもてなかったのです。

 男女の恋の機微がワカラン。選択は二つに一つしかない。結ばれるか、別れるか。さっさと決めたらええやんと思ってしまうのです。だれとくっついても、すぐに飽きるんやからと。どんな大恋愛も最大で二年しかつづかないと、某作家が書いていました。「心中物」が好まれるのは、ジジババになる前に、冷凍保存するからです。

 私が書かせていただいていた当時、掲載誌に、男女以外の恋愛の設定は皆無でした。有名作家で、男性同士の恋愛作品を書いておられたのは、三島由紀夫大先生と赤江漠氏と栗本薫氏くらいでした。のちにミステリー界から高村薫氏が出られるわけですが、肝心な場面は匂わすだけで、そういうシーンはほとんどありませんでした。

 読みたい、見たいが、書きたいに変わっても、私の知るかぎり、有名作家以外は、書かせてもらえる場などなかったのです。

 どう思われてもいいと、ようやく決心がつきました。通常の男女関係に近づけようとしたがために、男の子みたいな女の子での駄作になり、お目を汚してしまいました。そこからさらに、ストーリーも通常の神経の方には堪え難い方向へ向かい、魔性の美少年の登場になりました。男性同士の本番エロビデオは見たことがありませんので、淫らな妄想で書いています。実体験が不可能なエロ小説ですが、書いていてワクワクしました。美少年と血と精液ほど相性のいいイメージはないからです。美少年の寿命は桜の花のように短いですが、それゆえに、悪魔の化身のように美しい。

「超自我」に、私は「夢の番人」という名前をつけているのですが、今頃、発狂していると思います。

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