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【短篇小説】ぺてん

    

 あとになって考えてみれば、目立たないところが、その男の特徴といえた。
 マスクをした男はアタッシュケースを持ち、さほど安物にも見えないダーク・スーツをさりげなく着こみ、メタルフレームの眼鏡をかけていた。

 ノックの音で、古びたスチール製のデスクから顔を上げた倉本直次は、ドアを後ろ手に閉めるその男を見て、ほんの一瞬、目障りな奴だと思った。薄い髪を七三にきちんと撫でつけているのに、マスクをとると、こけた頬から顎にかけて、剃り忘れたように髭が濃かった。

「きのう、お電話をさしあげました大日本調査会の者です。ええ、そうです。ある方から、ご紹介いただきました」
 男はそう言って腰をかがめて名刺を出し、田能村と名乗った。会社名と、大阪市北区国分寺二丁目***の住所、それに姓名と携帯番号が記されていた。
「タノムラとお読みするんですか?」

 なぜ、会社の代表番号がないのか、尋ねたかったが、

「一応のことは、お訊きしておりますので、本日は手短に片づけたいと――」
 田能村は狭い事務所を見回し、人気がないことを確かめると、
「中には、誰が調査しているのかと、うるさい方もいらして、私どもでは弱るんですが、こちら様では、依頼主にお心当たりがおありと伺いまして非常に気がラクなんです」

 田能村はにっと笑った。笑顔になると、ちらりと金歯がのぞき愛敬があった。髪は薄いが、見た目より年齢は若いのかもしれない。

「はじめに申し上げておきますが、依頼主に関するお問い合わせにはいっさい、お答えできない取り決めになっております。ええ」

 田能村は、倉本がすすめる前に、デスクの横にあるソファに腰を下ろした。

「いや、ご心配にはおよびません。わが社は関西でも有数の調査会社でして、世間という興信所でしてね、ご存じですよね?」

 倉本が、名前だけは知っていると答えると、田能村はほっした表情になり、「こちら様に、ご迷惑のかかることはございません、絶対に」と確約した。

 倉本は手の中の名刺をじっと見つめた。

「そこで、できましたら、定款をお貸しいただけますか?」
「定款……?」
「はい、依頼主が依頼主ですのでね、そこはそのう、調査もひと通りのことでは承知してもらえないんですよ。幽霊会社の場合が時々、あるんですよ。ご協力ねがえれば助かります。ええ」

 田能村はひと息つくと、スーツのアタッシュケースに手を入れて緑色のケースに入った〝禁煙パイポ〟を取り出した。火はつくがニコチンは出ない。煙は出るしろもの。
 倉本は煙草をやめて数年、経つ。未成年の頃から吸いはじめて煙草がないと、口がサミしくイライラした。しかし、灰皿に困り、路上の排水溝に捨てるところを自治会をしきる中年女に見つかり、怒鳴られてからは金勘定にうるさい妻の小言を聞くのも面倒になり、思い切って禁煙した。
 いまでは、煙草であって煙草でないまがいものを吸う、小心者の気がしれないと内心で嘲りつつも、信用できる気がした。

「息子が、健康に注意しろとうるさく言うもので、ええ」

 倉本は、同じビルに店を構えるスナックにコーヒーの出前をたのんだ。ツケがきくので便利なこともあるが、すれ違うたびに意味ありげな目で見つめられるのでうっとおしい。店のママと一度きりだが、寝たことがあるからだ。自分では、好みがうるさいタイプだと思う。
「おかまいなく、仕事ですので」
 田能村はそう言って、ゆうゆうと禁煙パイポをふかしはじめた。

 倉本はデスクを離れて、田能村の向かいに腰を下ろした。
「コピーやったら、かまわんけど」
 と言うと、
「原本をお願いします」田能村は顔の前で手を振り、「ご心配なく、数日、お借りするだけですから――だいち、実印がないのに、定款だけでは何もできません」
「定款まで貸してパァやと、かなわんな」
 倉本は、現金のほとんど入っていない金庫の鍵を手の中でいじる。
「私どもが、ここに、こうしてお伺いしているということは、すなわち先方の意思表示とちゃいますか?」
「そうかなぁ……」
 倉本は閉じた唇を左右に動かした。考えこむときの癖だった。
「実は……」と、田能村は声をひそめた。「内密にお教えするのですが、この件について三、四社の競り合いになってるんです」
「聞いてないなぁ、そんなふうには」
「あたりまえですよ!」
 田能村はアタッシュケースをテーブルにのせ、「ほれ、ごらんなさい」と、朱肉の印鑑跡がくっきり見える定款の束を、倉本に突きつけた。

 倉本は一瞥し、押し黙った。法人税のことを考えると、廃業手続きをとったほうがいいと近頃、しきりに考えるようになっていたからだ。階段で上り下りする北向きの手狭な事務所もたたんだほうがいいと。

「いまどき、競争のない商取引があると思いますか?」と、田能村は、濃い髭面の顔を近寄せながら、「どこの社に決定するかは、私のさじ加減ひとつなんです。ええ」
 倉本は、男が、「ええ」と言うたびに、自分も頷きそうになる。
 田能村は皮製の手帳をゆっくりとめくる。「私どもの調査によりますと、借入金がまったくないと伺いましたが?」
「まあ……」
 倉本は唇を動かす。帳簿上は、黒字決算になっている。親類縁者からの借金を売上金に計上しているので赤字は記載されない。まともな金融機関は、四半期ごとの損益計算書と貸借対照表を目にしたとたん、貸し出しを渋る。

「借入金がない、そこが、キーポイントなのです」と、田能村の声に力がこもる。「名ァのある会社から高価な品物をあずかるわけですから、信用が第一なんです。その点、法人登記しておられるこちら様はまずまちがいがない」
 田能村は、倉田の心中を見透かすように、
「有名店の商品カタログを見せて関心を引いたところで、現物を見せる。世界各国の船員から注文をうける――ネットの時代やからこそ、これは、もう、グッドアイデアです。依頼主の責任者が感心していました。何しろ、ヨソは、ネットに載せることしか考えてませんのでね、ええ」
「船上では販売できんが、ランチ(小艇)で船員や仕事仲間を送るときに無駄話のついでに安もんの雑貨を売ってる」
「外国語が堪能な方にしか、できないお仕事ですねぇ」
「あいさつ程度やけどな」
「たいしたもんです! 羨ましいなぁ」

   

 震災後の混乱がおさまるのに十年かかったように思う。その頃に、海のタクシーと呼ばれる、連絡用に使われるランチを買い取り、各国の船舶に出入りするようになった。かれこれ十年近くになる。気がつけば三十半ば。家族やかつての同僚から顧みられない暮らしを何年も続けている倉本にすれば、会ったばかりの男であっても誉められると、面映ゆい気持ちにも増して心が浮き立つ。

 倉本はつい、調子づいた。

「なんとかなるようなら、貴金属なんかも考慮してええと思てる」
 実家が時計や眼鏡を扱っていると言ったあと、さびれた店舗を思い出す。
「ああ、ますます有望株ですねぇ。そのおりには、ローンの件は私どもで手配させていただきます。ええ」と、田能村は真顔で言った。

 倉本はすわりのいい鼻を指先でなぞった。これで、妻の両親にも顔向けができる。収入のいい建築業から足を洗うとき、反対されたのを押し切ってはじめた仕事だった。港と船が子供の頃から好きだという単純な理由で転職する倉本に周囲の誰一人、賛成しなかった。幼馴染の増田だけは力づけてくれた。風俗の店に出入りするとき、同じ女の子を指名し、相手がすむのを待つほど気のおけない仲だからかもしれない。

 倉本は目の前に客がいることも忘れて、深い溜息をついた。

 当初の目論みではうまくいくはずだったが、神戸港に入る船舶の数は月毎に減少していき、ランチを使う仕事もみるみるうちに減った。
 海岸通りと背中合わせになる、裏通りの古い貸しビルの一室を借りているが、携帯電話に連絡が入れば船員相手に雑貨品――大人の玩具と呼ばれるあやしげな品物をこっそり売りつけるのが倉本の現状である。時によっては、昼メシ代にも困るありさま。ガソリン代の値上げも響いている。毎日ように、なんとかしなければと、気持ちばかりが先走り、焦っていた。

 十日ほど前、四月の半ばだった――、

 最近、顔見知りになった少年が、いつもの格好で事務所にやってきた。カーキ色のチノパンにデニムシャツ。開店休業の日が多いので、マスクなしの若い子が訪ねてくれるとハマの仕事をしている気分になれる。と言っても、小柄で痩せ型の上に、重たげなまぶたの下の大きな目が印象的なのでひと目で男女の区別がつきにくい。男はかりの仕事場で使いものになるとは思えない。
「ひさしぶりだな」と声をかけると、「ああ」とひと言。
 コンビニの前でたむろしている少年たちとは、雰囲気が異なる。眉が濃く五分刈りにしているせいか、群れない野犬を思わせる。一見、仏頂面をしているように見えるが、小顔なので笑うとなんとも言えず愛くるしい。
 少年のために、倉本は小型冷蔵庫の中にペットボトルの水を買い置きしている。

「この仕事も、そろそろヤバイかもな」と、タケルがめずらしく泣き言を言った。「いまの暮らしに飽き飽きしてる」
「商売替でもするんか? ごくろうなこっちゃ」と、倉本は、からかい気味に言った。「カネだけ取って、ホテルへ行くと見せかけてトンズラするやなんて、アコギな商売はやめたほうがええ」
「小汚いオッサンに触られたないんや」
 タケルはハイライトをパンツの後ろポケットから取り出すと、倉本のデスクの抽斗を勝手に開けて百円ライターを取り出し、それで火を点けた。
「おれもオッサンやけどな」
「ナオちゃんはええんや。自分が、きしょいオッサンにからまれて困ってるとき、助けてくれたし、ヤらしい目ぇで見ぃひんし」
 倉本の事務所で、タケルが小休憩する理由は、煙草を吸う場所に困ってのことだ。しかし、三十過ぎて、ナオちゃんと呼ばれると、胸がざわつく。子供の頃を思い出すのかもしれない。

 来客用の紙コップを灰皿がわりにしながら、「いまのまンまやったら、ジリ貧やもんなぁ」と、タケルは甘えた口調で言った。
「そんなことないやろ」
 タケルがどうやって中年男をたぶらかしているのか、倉本は見知っているからだ。

 空が群青色に染まる時刻、海岸通りに近い東遊園地の暗がりで人待ち顔の中年男に近づき、煙草の火を貸してくれと言って相手の顔をのぞきこみ、「どっか遊びに行かへん?」と誘うのだ。
 たいていの男は戸惑う。その種の少年に見えないからだ。くるくるよく動く黒い瞳が、幼児をイメージさせる。
 幼馴染の増田と待ち合わせていた倉本は性別のつきにくい容姿の少年を、見るともなしに見ていた。

「いくら……?」と男が尋ねると、タケルは短髪の頭をかしげながら、「オジサンの思うだけでいい」と無垢を絵に描いたような表情で答える。
「カネによって、サービスがかわるゆーことはないやろな」
「ないない」とタケルは言って手を開いて出す。
 男は札入れから札びらを出す。その瞬間、少年のきゃしやな手がさっと伸び、札びらを抜きとる。それと察した男がタケルの手首をつかみ、「その手にはのらん」と言ったのだ。
 少年は押し殺した悲鳴をあげた。倉本はなぜ、タケルを助ける気になったのか、いまもわからない。男を突き飛ばし、少年の細い手を引っ張って駆け出した。

「まじめに働けよ」と、そのとき、倉本はタケルを叱った。
 街灯の灯る海岸通りまで逃げてきていた。
「オカンが働かんからしょうない」タケルは頬をふくらませて言った。
「なんでもええから、あぶない仕事はやめとけ」
  タケルはふふんと鼻で笑うと、「オッチャンが、養ってくれるか?」
「おれには妻子がおる」
 そこへ増田がやってきた。東遊園地と隣接する市役所に増田は勤めている。生真面目を絵に描いたような男で、時間にうるさかった。
 LINEで待ち合わせ時間と場所の変更を報せたが、増田はタケルをひと目見て、落ち着きがなくなった。遅れたことに腹を立てているのだろうと思い、謝ったが機嫌はよくならなかった。
 三人で倉本の事務所へ行き、コンビニで買ったもので飲み食いした。口を動かしている間中、増田は上目遣いにタケルを盗み見ていた。一方のタケルは、増田の視線に気づかないふりをした。

   

 それ以来、タケルは暇をもてあますと、倉本の事務所をのぞくようになった。冷蔵庫を開けてペットボトルの水を飲み、煙草をふかす。
「どんな奥サン?」と、幅のない腰に手を当てて訊かれても答えようがない。
 駅前のスーパーの契約社員となった妻とは没交渉となって五年以上経つ。もはや、夫婦とは名ばかり。ほとんど口もきかない共同生活者である。このあいだ、廊下でぶつかると、肥満気味の妻は、「ビンボー臭いオッサンと、朝っぱらから鉢合わせするやなんて、今日も厄日やわ」と吐き捨てられる始末。中学生の娘も女親を見倣ってか、寄りつかない。

 タケルは、そんな倉本の心の渇きを見透かすかのように――、

「ヒマやなぁ」と、タケルは欠伸をするついでに、倉本が腰かけている回転椅子の後ろへまわり、倉本の肩に両手を置き、「なんもすることがないと、退屈せぇへんか」
 倉本はタケルが誘っていると感じた。肩をそらしてタケルの手を外す。
「カネのないオッサンをからかうな」と言う声がかすれる。「ええかげんにせいよ……」
 タケルの右手は倉本の脇腹をすりぬける。ズボンのジッパーを探り当てると、そろそろと下ろしはじめる。
「どういうつもりや!」
 オッサンでもええんかと気色ばむと、
「ナオちゃんのこと、だれよりもお気に入りやから、ほんのごあいさつ」
 と、タケルは耳元で囁いた。
 倉本はタケルのあどけない顔をまじまじと見た。「ほんまのトシはいくつなんや?」
 いつものは十八歳だと言っているが、そんな年齢に見えないのだ。
「あっ、見っけた」タケルの手は倉本の下着の中にするりと入った。
「大人をからかうな」倉本の声は一層、低くなる。
 タケルの手は、倉本の分身をとらえる。思わず、声がもれる。
「オカンのコイビトがMデパートの外商部長なんや」
 そう言って倉本の頬になめらかな頬を近づける。だから、自分たち家族はなんとかいままで生きのびられたと。
「ヤらしいオッサン相手のアルバイトは弟らのためなんや」
 少年が囁くたびに、甘い吐息が頬にかかる。骨がないような細い指が上下動するたびに、倉本の下肢は意に反して力を増していく。
「カネはない言うてるやろ」と答えるのが精いっぱい。
  無聊をかこつ倉田の分身はあるじにそっくりで、近頃では排泄にしか使用されていない。
 タケルの指はおかまいなしに性器をもみくちゃにする。
 あるじの意志に反して、荒波に飲み込まれた分身はあっという間に勢いが増してしまう。
「そのオジサンがぁ、九州に転勤させられそうなんや。その前にぃ、別のコネを見つけて、思い切って自分で仕事をはじめてもいいかもと思ったわけなんよ。ナオちゃんが前からやりたがっていた仕事に、のっかってみようかなって――もう、選挙権もあるし、自立してもええトシやと思うしーーもう、そろそろ出したい?」
 回転椅子を足で蹴って半回転させる。タケルの手が離れる。虚を突かれたふうのタケルは棒立ちになる。倉田は立ち上がり、タケルを抱き寄せた。
 顔を寄せると、タケルは目を見開いた。真っ黒な大きな瞳の中心が揺れ動いている。怯えてる目だ。日頃のタケルを知っているからこそ、少年の言動を本気にできなかった。チノパンのジッパーに手をかけたとたん、タケルは魚が跳ねるように倉本の腕の中からのがれた。
 震えている。顔が青ざめている。

「きつい冗談やな。アホか、子供のくせに」
 倉本はタケルの手で膨張させられた分身を鎮めるのに数分、要した。
「おこらんといて……」と、タケルは小さく言った。
「怒るわけないやろ。ただ、なんでこんなことするのか、知りたいだけや」
 タケルは背中を向けると、デニムシャツをたくしあげた。殴られるか、蹴られるかしたミミズばれのあとが、くっきりと見える。
「客にやられたんか」
 タケルは頷き、カネを騙しとった男と偶然、再会し殴られたという。
「お願いがあるんや」
「なんや」 
「法人の保険に入ったことにしてもらわれへんか?」
「カネはないぞ」 
「わかってる、それくらい。名前書いて、ハンコ押してほしてだけなんや」
 タケルは大きな目に涙を溜めている。
「いますぐ押してほしいねン。この書類がないと、どうにもならへんねん」
「メンド臭いな、つぎでええやろ」
 座り直し、向きを変えた倉本の肩を、タケルは握りこぶしで叩いた。
「外商部長サンに紹介してあげてるからぁ――」
「いらん」
 タケルは倉本の前にまわって、しゃがみこみ、彼の両手に自分の手をかさねてにぎりしめ、その手で倉本の膝を揺らす。せっかく平静を取り戻した分身がふたたび頭をもたげてくる。落ち着こうとすればするほど、神経が高ぶってくる。苛立ちが感情を波立たせる。タケルの手を叩いて振りはらう。

「その手にはのらん!」と、公園で、タケルを脅したオッサンと、同じ罵声が口をついて出る。

「サインとハンコ、お・ね・が・い」タケルはこんどは、頭を倉本のひざにのせる。喉仏のない白い首筋は、倉本にかるい眩暈を起こさせる。

「何をしでかすか、わからんヤツの頼みはきけん」
「ナオちゃんしか、頼れるヒトおらへんねんからぁ」
 タケルはそう言うと突然、ポロポロと涙をこぼす。こぶしで涙をぬぐう。手拭きのタオルを投げてやると、顔中をくしゃくしゃにして、泣きじゃくる。
「なんで、信じてくれへんねん。スキやから、頼んでるのに」と、涙声で訴える。「ぼくが、他の男に、ナオちゃんにしたことと、おんなじことしてええねんな。ナオちゃんのアレを飲んであげるつもりやったのに……」
 両耳を塞ぎたかった。
「わかった」
「ほんまにええのんか。うれしすぎるもン」
 タケルは涙が乾かぬうちに、倉本の首に腕をまわし、顔を寄せてくる。「これなんやけど」と、すぐさま顔を離し、どこに隠しもっていたのか、複数の書類が、デスクに並べる。チノパンのポケットに折りたたんで入れてあったようだ。さっき、初心な少年を装って逃げたのは、書類に気づかれたくなかったからだ。ハメられているとわかっていながら、もう一度、下ろしっぱなしのチャックの中に手を差し入れられると、催眠術にかかったように、
「どこに押すんや……」
「簡単にすむからーー」
 倉本は、タケルの指と掌の動きに気をとられ、文面もろくに読まずに書類にサインし、実印をなん箇所も押した。タケルは倉本のズボンから手を抜くと、「サンキュー」と短く言って、オカンのコイビトのこと、たのしみにしててなと言い足してそそくさと帰って行った。

「くそぉー!」

 中途半端に刺激された倉本の分身は怒りで猛り狂った。吐き出すものを吐き出さないことには、まともでいられない。惨めな思いに打ちひしがれながら、トイレで処理する。
 タケルの言葉を微塵も信じていないがーー、
 徐々に落ち着きを取り戻すと、夢と願望が頭を占領した。Mデパートと手を組んで、かねてからやりたかった商品カタログ販売の仕事のメドがつくかもしれん――と思うだけで、倉本の頭はコロナにかかったように熱くなった。
 三十半ばになるいまだからこそ、後先考えずに、のめりこめる何かを求めていた。実体のともなわないを見果てぬ夢だと知りつつ、たしかなものが欲しい。

 夢の尻尾がいま目の前にやってきている――、タケルの話は嘘ではなかったのだ。

「急ぎましょう」と、大日本調査会の田能村は、出前のコーヒーを喉を鳴らして飲み干し、勿体ぶった言い方をした。「いまから、お話することは、こちら様にもけっしてご損にならないことでして、ええ」
 三枚綴りの用紙を、田能村は倉本の鼻先でちらつかせる。
「賛助会員のご加入を、私どもではお薦めいたしておりましてね、いかがなものかと――ええ」
 倉本の目は用紙に釘づけになる。
「信用のおける、御社のようなところにしか、お話させていただかないんですが――」と、田能村はつづける。「この調査票さえ、お示し下されば、あらゆる調査のご要望に応じさせていただくわけなんです、ええ」
「調査してもらいたいようなことは何も……」
 倉本が口ごもると、田能村は身を乗り出し、
「新規の事業に手を染められる以上、新たに社員を雇い入れる必要が生じますでしょう?」
 そのさいには、身上調査が欠かせないと田能村は言う。
「とにかく一部上場企業とタイアップしてのショーバイなんですよ。経費はかかりますが、しれてます。月々、たったの一万です。儲けはその十倍、いや二十倍、諸経費を差し引いても、十二分にペイします」
 倉本は思わず、「一万か……」とつぶやいた。

 田能村は〝禁煙パイポ〟を煙草ケースにもどすと、書類の右上に日付を書き入れた。
「三回分を前払いしていただきます」
「……手元に現金は……」
 取引銀行にアクセスして、残高を見なくてもわかっている。
 限りなくゼロに近い。
「入会金の五十万円をそえて申し込んでいただきます」
「家族と知人に相談してみてからでないと……」
「内金として三万円だけでも――本日、ご都合が悪いようでしたら、入会金の五十万に三万円をそえて五十三万。うちの取引先銀行へ一週間以内に支払っていただかないと、お話は無効となります。おわかりですよね? 私も調査員の端くれですので、いいかげんな取引にはかかわりたくないんですよ」
 田能村は借金を取り立てるようなぞんざいな口ぶりになった。

 ふと、ノせられているのではないかという疑いが、倉本の頭をよぎった。顔色に出たのかもしれない。

「大日本調査会と致しましては、会員の皆様に、お一人でも多くご賛同いただきましてですね、職種によっては、双方のご利益になるような事業の仲立ちをさせていただいております」
 田能村は早口になった。
 倉本は思案するときのいつもの癖で唇をもごもごさせた。
 話の途中から、金のかかることはある程度、覚悟していたが、こんなに早く請求されるとは想定外だった。

   

 田能村が帰ったあと、倉本は思案した。ろくに調べもせず定款を渡したことを妻が知れば、ひと悶着どころの騒ぎではすまない。五年前、仕事に行き詰った倉本は、港と市街地を区切る高架線を囲うフェンスに貼られた広告を見て二百万円、借りた。年利七三%の利息は短い間に、借入金を倍にした。あのとき、妻の実家が肩代わりしてくれなければいまの暮らしはなかった。

 タケルは言った。いまの暮らしに飽き飽きしていると――、

 妻とは性交渉のない夫婦となり、正月に妻の親戚が集まる席にも顔を出せず、思春期の娘は、倉本がたまに昔馴染みの増田と酒に酔い、千鳥足で帰宅しようものなら、痴漢にでも出会ったように自分の部屋に逃げ込む。

 このまま人生が過ぎてゆくのか――。

 その日のうちに田能村から催促の電話がかかった。月々の会費はともかく、入会金の五十万円を至急、振り込んでほしいというのだ。
「連休に入ると、どこの会社も事務関係はストップします。いまがチャンスなんです。いまなら、検討してもらえます」
 自動的に、遺漏のない調査結果が依頼主に送付されるとつけ足した。
 倉本は手渡された名刺の裏を見る。「振込み先の社名が、ちがうんやけどなぁ。〝BJTIC〟ってなんやねん?」
 田能村は待ってましたとばかりに、「ビックのB、ジャパンのJ。TICは、the・investigational・committeeを縮めて、当社では、ビイゼェイティックと略称しております。ええ」
「代表者の名前が、吉永達雄なんか?」 
「いまのところは」と、田能村は言った。「吉永は、Mデパートの外商部長を兼務しておりましたが、不祥事がありまして九州に左遷されるようです。それでですね、お急ぎいただきたいと申し上げているんです。ええ」
「左遷……?」
 田能村が言うには、外商部長の愛人が、傷害事件を起こして警察に逮捕されたという。新聞にも載っているそうだ。名前を訊くと、「葛城満代」と言った。タケルとどういう関係なのだろう?
「Mデパートの専務が厳格な方ですので、定款の原本をお渡しいただいたんです――写しでは信用がもひとつ――すぐにお返しします」

 田能村の口ぶりに、焦りが感じられた。内心では気づいていた。彼のもちかけた話が事実かどうか、確かめるべきだと。Mデパートの外商部に直接、問いただせばただちに判明することだ。一方で、せっついて心証を悪くしたない気持ちもあった。ネットで、事件の有無を確かめた。四十一歳の無職の女性が、内縁の夫を殺めたとある。顔写真を見ると、タケルとどことなく似てる。母子なのかもしれないと思った。貧困ゆえの犯行なのだろう。

 倉本は唯一、のこった友人、増田に連絡し、借金を申し込んだが、失職中だと言われて断られた。仕方なく高利の金に手を出し、田能村の指定した口座に振りこんだ。

 三日経ち、一週間経ち、五月の連休が過ぎても、Mデパートの外商部から何の音沙汰もなかった。むろん田能村からも。
 倉本は、田能村の名刺にあった携帯番号に連絡を入れたが、呼び出しているのに応答がなかった。

 しばらく待つと、メールが返ってきた。
『現在、コロナに感染し、高熱のため、当分出社できません』
『話は進展しているのか?』
『調査の内容は気密事項に属します。担当者にしか是非はわかりかねます』
『入院先の病院はどこか?』
『コロナ患者を受けいれていることが知れると、この病院に迷惑がかかります。ご了承ください。メールも今後はお控えください』
 それっきり、電話は通じなくなった。
 頭をかすめた不安が的中したのだ。
 田能村を捜し出し、問い詰めても振りこんだ金はもとより、定款の原本ももどらないだろう。紛失届を申請をすればすむことだが、釈然としない気持ちは否めなかった。

 倉本は、タケルがいるかもしれない東遊園地へ行ってみた。
 はじめからいなかったかのように姿を消していた。Mデパートに問い合わせると、吉永は四月末で退職していた。タケルが紹介すると言ったとき、すでに在籍していなかったことになる。

 思い余った倉本は、二十数年来の友、増田を事務所に呼び出し、事の顛末を打ち明けた。他に相談できる相手もいない。倉本が以前勤めていた建設会社が公共事業を請け負うさいに世話になった。増田がいなければ、震災復興事業の終了した時点で、勤めていた建設会社は倒産していただろう。名の知れた建設会社のいくつかが倒産した時代だった。
 入札にかかわる部署の課長職のポジションにいた増田が、辞職した理由も知りたかったが、増田は溜息をついただけで、語ろうとしなかった。
「しょうもないことやったなぁ」と、見慣れたスーツ姿ではなく、肘のぬけかけたセーターに染みの見えるズボンをはいていた。
「何かまずいことでも、あったんか」
 案ずると、増田は頭をふり、倉本の軽率さを責めた。
 持参した缶ビールを飲みながら咳こみ、痩せこけた頬の顔をしかめる。
「ありきたりな手口にコロッと引っ掛かったんやなぁ。おまえのとこ、有限会社やったやろ? おれが、世話して、知り合いの廃業する会社から譲ってもろたんやったな。いまはもう有限会社はつくれん。ややこしい仕事をしてる連中の間ではけっこう需要があるんや」
 そう言えば、名義変更にかかる費用も負担してもらった。接待と称して、売上金の一部をキックバックしていたので、当然のように思っていた。

 増田は目を据えて、倉本を睨んでいたが、
「おれの言う通りにして、そっちの損した分以上のカネが手に入ったら、その半分は、おれにくれるか?」
「お役人のときと変わらんな」
「やるか、やらんのか、はっきりせぇよ」
 倉本は唇を引き結び、頷いた。一矢報いることができるなら、どんな悪どいことでもやるつもりだった。

    5

 大阪環状線の天満駅を下り、左に曲がる。この駅のトイレは絶対に使うなと、前もって増田に忠告されていた。汚いだけでなく、危険だと言うのだ。神戸にもそんなところはいくらでもあるが、比較にならないらしい。
 駅前に立ち飲み屋があり、昼間から飲んでいる客がずらりと肩を並べている。
 一丁目から六丁目まである天神橋筋商店街の中ほどに入る。激安大手スーパーがまず目につく。昭和を彷彿させるレコード店や、格安の古着を売る店などもある。

「スーツはこの店で買ったのか……」と独りごちる。

「ちょっとどいてんか」先を急ぐ、出前持ちの声でわれに返る。

 この町の住民は列をつくって整然と歩かない。前後左右、好き勝手にほっつき歩く。中年女の服装も総じて派手である。

 倉本がとっくの昔に忘れたものが、ここにある気がした。

 行き交う庶民の発するエネルギーに倉本は気圧される。売り子の声が飛びかう商店街を通りぬけると、〝天六〟に出る。ここから堺へ行く南海線までの狭い地区に、パチンコ店や飲み屋など飲食店が軒をつらね、一帯に猥雑な雰囲気が漂う。ワンルームマンションと戸建てとも言えない民家とが混在し、反社会的な人間が多く居住していると噂されている。

 神戸から大阪に来ると、いつも感じることがある。神戸は町も港も終わっていると――。子供の頃の神戸を知っているので、余計に感じるのだ。

 この町に住む田能村に勝てる気がまったくしない。
 住所の場所にたどりつくと、ワンルームマンションと隣接するスレート葺きの片屋根の建物があり、壁面も色褪せたスレートが打ちつけられている。
 薄暗くてはっきり見えないが、アルミサッシの出入口の上に真新しい看板があがっていた。
『田能村労働保険協会(有)』
 建物の前で、小学生に見える男の子が二人、遊んでいる。
 生ごみの腐った臭いがただよう路上で、倉本はしばしたたずんだ。脛から下がヤケに重い。忍び足で近づくと、貼紙があった。

『中小事業主・一人親方・船員中小事業主の皆様、生命保険、特別加入制度をご利用ください』

 思った通りだった。関西で有数の調査会社など現存しないのだ。
 大阪の調査会社がなぜ神戸くんだりまでと不思議に思ったが、ここに来て見て納得がいく。倉本が大阪の地理に明かるければ、この一帯に会社関係のビルなど存在しないことは瞬時にバレて、デマが通用しなかった。
 建物の中から、男の喘ぎ声が聞こえる。いたたまれない気持ちになる。もしかするとーー、想像するだけで、タケルの指の動きが下肢を占領する。

 天六にある居酒屋に、増田は先に来ていた。なぜか、ニッカポッカをはき、分厚いTシャツの上に、背中に昇り竜の柄のある派手なトレーナーを羽織っている。どこから見ても、ヤクザにしか見えない。
 この格好の連中と付き合うがイヤで転職したと言ったら、増田は激怒するだろうか。
「どんな男かしらんけど、ええ手口を思いついたもんや」
 からむようにしゃべる増田はすでに酔っている。
「フツーは引っかからん」と倉本は言った。「ただなぁ、タケルがかかわってるようやったから、ついな」
「あのガキとなんかあったんか?」と訊く増田の声は刺々しかった。
 感じるものがあった。直観と言ってもいい。
「カネさえ出したら、だれとでも寝るコや」
 増田の顔色が変わった。自分が応援する野球チームの人気選手を腐されたときに見せる男の表情だ。腹立たしさと口惜しさが入り混じった目の色をしている。
 倉本は、その瞬間に、一連の騒動の一端が見えた気がした。

 しかし、なんのために?

「どっちの尻やったかなぁ、ホクロがあるんや」と倉本はわざと言った。「そそられるとしたら、そのくらいやな。なんせ子供やから味も素っ気もない。あんなんと寝る男の気がしれん。そういうおれも、その一人やけどな。なんと言うてええかなぁ、達者なんは口だけや。鶏肉でゆーたら、ズリやハツやな。女と寝るのとは比べもんにならん。けど、まあ、ヤってほしいと頼まれたら、イヤとは言えんしな」
「おまえなーッ」増田は立ち上がると、まだ手をつけていない焼き鳥の盛り合わせを、皿ごと通路に叩きつけた。
「さんざん、世話になっておきながら、そこまで言うかッ!」
「どないしたんや?」と、倉本は平静を装い、「おまえのヨメの話やないデ。おれを騙したクソガキの話やぞ。女の子みたいやけど、一応、男やから、余計なもんがぶらさがってて、邪魔になって、しにくかったゆーてるだけや」
「うるさいんじゃー!」
 怒鳴り声に驚いた店員が駈けつけ、後片付けをはじめると、増田は「すまん」と詫びを入れ、どすんと音を立てて座り直し、チューハイを一気飲みする。
 大きな溜息を吐き出し、トレーナーを脱ぎ、刈り上げたばかりらしい坊主頭を事務仕事の経験しかないヤワな指でボリボリかきむしる。フケがそこら中に飛ぶ。伸びた爪に垢がたまり、黒くなっている。
「ウーッ、ウーッ……」と、増田は苦し気に唸る。
 倉本は氷の浮いたウーロン茶をひと口のむ。「ほな、聞かしてもらおか? ナニがどうなってるのか」

 酔いの回った増田は居酒屋のテーブルに突っ伏した。ゴツンと、テーブルに額がぶつかる音がした。
「あのクソガキ……、タケルのことやけどな、いつもは一万、出したら役所のトイレで、ええ気持ちにしてくれて、最後は、チュウチュウ吸い出してくれるんや。そら、もう、極楽や」
 倉本は増田に対して、猛烈なジェラシーを感じた。
「そんなことができるトイレがあるんか、役所に」
 増田は顔を上げると、目尻を下げ、
「市民が入れる展望台があるやろ。あの上下階のトイレは一般人が紛れこむとすぐに排除されるんやけど、おれはタケルに書類を配送するメッセンジャーボーイの仕事着を貸してやって、入館証を渡してやってたんや」
「やっぱり、公務員試験を通るヤツの頭は、おれらとちゃうな」
「しかし、なんどかつづくと、同僚の、おれを見る目が気になり出して、三万、出すからホテルへ行こうと誘うたんや」
「おれと、タケルのように本格的にヤリたくなったわけや」
 増田の目が真っ赤になる。げんこつで、テーブルをドンと叩く。
「三万、出したとたん、いざとなったら、十六やと言いだしやがって、ケーサツを呼ぶと言うたんや」
「そら大事やな。その頃は、まだ公務員やったんやろ?」
「しゃあないから、あきらめたんやけど、おまえとは仲ようしてるみたいやないか。ほんまにしたんか、ほんまにかーッ。証拠を見せてみぃ」
 それで、事務所で会ったとき、増田の態度がいつもと違ってぎこちなかったのかと、思い当たる。
「おまえ、結婚もしてるし、子供もおるし、いつからそっちへ転向してたんや。おれの場合はなりゆきで、そうなっただけで、尻の肉も胸の肉もないのと、二度とスル気はないけどな。ヒトは見かけによらんな。そういう趣味があったんか、へぇ、いつからや?」
 風俗の店へ行ったとき、ぽちゃとむっちりしたコを、倉本が指名すると、増田も同じコを選んでいたからだ。
 増田は涙を流し、鼻水をたらす。
「久方ぶりに、おまえんとこの事務所に行ったら、ちょうどタケルが階段をおりてきてな。目ぇと目ぇが合(お)うた瞬間に、ムカーッときたんや。ほんでつい――事務所でアレをしてるのかと、思たら我慢ならんかったんや」
「背中を蹴とばしたんか」
 倉本はチューハイのお代わりを注文する。
「タケルはめったにおらんコや」と、増田は目を細める。「ツンケンして愛想がない。女のにおいがせん。そこがええ」
「おれの行きつけのスナックのママともヤったんやろ?」
 タイプが違いすぎるやろと適当に言ったつもりだったが、
「おまえのツケをはろうてやったときに、な」
「ほんまはどっちがええんや!」
「子供の頃から男しか好きになったことない。それがバレたら怖いから、適当に結婚して、適当に遊んでたんや」増田の目が妖しく光る。「ほんまはな、おまえのことがーー女の子にモテてたもんな。スポーツ万能やし、男前やったしーー」
「過去形かい」
 倉本は、ビンビールも注文する。
「飲も飲も。こうなったら自棄酒や。なぁ、兄弟」
 チュウハイとビールを混ぜて、浴びせるように飲ませる。

 酔っ払うほどに、増田の口は軽くなる。
「天満駅の便所、あっこでも、嫌がるタケルを襲ったんや。ボコボコにしてやった。ホンマ、臭い仲やデ」と自慢げに言ったあと、赤鬼のようになった顔で涙をあふれさせる。これほど泣き虫だったとは!
「ヨメと別れてもええと思てる。子供もなぁ。ホカしてもかまわんと思てるけど、やっぱりつらい」
「なんでや。なんでそこまでこだわるんや」
 鼻水をすすり、わからんと言う。おそらく本音だろう。
「役所は、自分から辞めたんか?」
 増田は力なく首を横にふる。役所の人事課宛に写真が送られてきたのだという。トイレでいい気持ちにさせてもらっているところが映っていたらしい。部下の仕業だったようだ。メディアに公表されることだけは、免れたが、職場に居続けることは不可能だったという。幸い、妻子には知られていないのが、せめてもの救いだと増田は号泣する。

「タケルのオヤジに五万やって、おまえンとこから定款を盗ませたんは、おれや。おまえには、貸したカネを、なんべんも踏み倒されてるしな。ま、そのくらいは……」
 金回りのよかった増田から倉本はなんども金を借りた。返さなくても許されると思っていたのは、子供の頃から自分にくっついて離れない増田を利用してもかまわないと心のどこかで思っていたからだ。いつか、こんな日のくることは、予測していた気がする。
「ウチの定款は、おまえが持ってるんか?」
「わるいと思てる。一生の友達やのに、裏切ってしもた……かんにんしてくれ……おまえもこれで路頭に迷うことになる……ここでいっしょに暮らそう」
「おれの会社は?」
「ネットで売った」
「実印がないのに、どうやって?」
「タケルにハンコ押さされたやろ? あれはな、印鑑の変更手続きの用紙やったんや。おれが教えてやったんやけどな。保険の加入用紙も紛れこんでたはずや」

 あらましのなりゆきはわかった。

「おまえとやったら、なかよう暮らせる」と、増田。
「この近くに住んでるのか?」
「もう、なんの縛りもないから、相手を探すのも簡単や。ホッたり、ホられたりやけどな」
 土木工事かと言いそうになる。
「ほんまにここで暮らす気か?」
 増田は首を縦に振り、「タケルが忘れられんのや。シゴいてもろたときの指の感触が忘れられんのや……恋しいて、恋しいて……やわらかいというのともちゃうな。骨がないというたらええのか……もっぺん、口でしてもらいたい」
 倉本は増田のチューハイにウイスキーも混ぜる。
「ちょっと前まで、一日遅れの新聞や一号遅れの雑誌を道ばたで売ってるオッサンが、〝天六〟におったんや。三分の一か四分の一の値ぇや。ワシにできる仕事ゆーたら、もうそれくらいしか、思いつかん」
「公務員の経験を生かしたら、なんぼでも、仕事はある」
「課長と呼ばれてきたこのおれが転職して、なんで世間しらずの若造に使われんならんのや。これでも、管理職やってんぞ。昔の上司が建設会社へ天下って、昔の部下にヘコヘコ頭さげてるの見たら、情けのうなる。おれにはできん。できるかいッ!」

 倉本は腕組みをし、唇を左右に動かす。「ウチの事務所にきたオッサンはタケルのほんまの父親か?」
「あれか、あれな、Mデパートの外商部におったんやけど、タケルの母親に色仕掛けで騙されて商品を持ち出して、クビになったそうや」
「似てないはずや」
「……タケルのことを思うと、泣けてくるんや」
 増田はオシボリで、涙と鼻水をぬぐう。
「田能村とはいつ知りおうたんや?」
「今年のはじめや。タケルとそのう、バッチリ、ヤらせるゆーから、わけのわからん保険に入ったんやけど、ヤらさへんから、ふた月前から掛けてへん」
「タケルはなんで、神戸の東遊園地でぶらぶらしてたんや」
「おふくろのせいで、クビになった田能村が、家に転がりこんだよって、神戸へ逃げてきてたんや。ま、それで、知りおうたんやけどな」
「あの場所はそういう場所なんか?」
 増田に倉本の声は耳に入らない。
「おふくろが、事件を起こしよった。佳純は父親の違う弟のために、もどったんや。そやからおれも、こっちへ流れてきたわけや。うっうっうっ……」

 倉本は、自分の気持ちを素直に吐露できる増田を心のどこかで、羨んだ。妻とは職場で知り合い、なんとなく結婚した。他の女に心を移したことはない。面倒な手続きがイヤなので、金のあるときに、風俗の女の子と寝る、その繰り返し。
 だれかを本気で求めたことなどない。自分の人生に踏みこまれたくなかったからだ。
 タケルが触れてきたとき、壊してしまいほど抱きしめたいと思った。あれほど、だれかを欲しいと思った瞬間などなかった。

   

 倉本は居酒屋の勘定を妻のクレジットカードで支払った。出かけに、妻の箪笥の抽斗から盗んできた。暗証番号は知っている。倉本が起こした不始末のあと、祖母の誕生日から母親の誕生日に変更したと、実家の両親と携帯で話しているのを偶然、耳にした。
 携帯の電源は家を出るときから切っている。
 倉本はコンビ二を見つけると、クレジットカードで引き出せる最大限の二十万を引き出し、ろれつの回らない増田から保険会社が提携している銀行を聞き出し、滞納している保険金を支払った。

 飲みすぎた増田は足元がふらつき、まっすぐ歩けない。

 倉本は天六のいかがしいあたりに来ると、増田が定宿にしているという民泊の近くまで連れて行き、彼一人を走ってくる車にぶつけるように試みたが、監視カメラが至るところにあり、断念した。

 死なない程度に怪我をさせるワザのむずかしさ……。

 天満駅までもどる。
 深夜のトイレをのぞく。水浸しだった。足跡が残ることはない。倉本は大便が盛り上がっている便器に増田の頭を押しこんだ。増田はゲロを吐き、手足をバタつかせる。
 しばらくすると、おとなしくなった。
 携帯に電源を入れ、110番通報する。
 警官がやってきたとき、倉本を介抱しているフリを装った。
 妻から警告の電話が入る。すぐに、カードを返さないと、銀行に連絡し、カードを使用できないようにしてやると。
「いま、増田と飲んでて、あいつがぐでんぐでん酔って、警察に来てもろたとこや。警官と電話、かわろか?」

 窒息しかけた増田は救急搬送された。救急車に同乗する。彼の自宅に電話をかけると妻は病院に急ぎやってきた。失職し、世をはかなんで死のうとしたのかもしれないと倉本がしめやかな声と顔で言うと、増田の妻は泣き崩れた。
「上司のせいで辞めざるを得なかったと悔しがってました。詰め腹をきらされたことがよほど、悔しかったんです。そんなこと、わたしはなんとも思てないのに――やり直そうとなんべんも言いましたのに」

 増田に、保険の未払い金の入金を頼まれたと言って領収書を見せると、彼の妻は病院にあるATMで出金し、その場で支払ってくれた。そのうえ、迷惑代として、三万円もそっと差し出す。増田にはもったいないヨメである。
「葬式代は家族に迷惑をかけたくないと、言ってました」と言いそえる。
 二ヵ月の未払い金なので、十万にも満たない金額だったが、手元に二十万を越える金がある。久しぶりに手にする大金だった。
 医師の話によると、増田の様態は芳しくなく、生死の境をさまよっているらしい。
 倉本は警察から事情聴取を受けたが、本人の過失で処理されるようだ。これで入院費用にも葬儀費用にも困らないだろう。死亡保険も入るだろうから、儲けの大半を渡したことになる。

   

 翌日、格安ホテルに泊まった倉本は午前中に役所へ行き、離婚届をもらい、サインし、クレジットカードを添えて速達で送る。船を売り、闇金で借りた金の返済に充てることと、子供をよろしく頼むと書き添える。

 重い紙袋をぶらさげ、田能村が看板を掲げるみすぼらしい家の引き戸を引いた。
 二間きりの奥の部屋に、田能村は真夏でもないのに、半パンツ一枚で寝そべっている。スーツ姿のときとは別人である。
 倉本は狭いたたきにある男物らしい履物を踏む。上がりかまちの横に、酒ビンが何本も転がっている。
 田能村と倉本の目が合った。
「わざわざこんな遠いところまで、ごくろうさんです」
 田能村はそう言って背中を丸め、くるりと起き上がり、
「賛助会員の方にお越しいただけるやなんて、光栄の突きあたりですワ」
「こっちこそ、探すのに、おおじょうしましたデ。環状線みたいにぐるぐる回る電車は神戸にないよってに」
「お互い、穏便に行きまひょ」
 田能村は言葉とは裏腹に、そっぽを向いた。

 薄暗い部屋の隅に、竹のように細い足を投げ出した半裸に近いタケルと、二人の少年がタケルの胴回りにしがみついて泣いている。
「ビイビイビイ、うるさいガキらや」と、田能村は憎々しげに言った。「母親のしつけがなってないから、言うことをきかんのや」
「ボン」と倉本は声をかけた。「出たとこの酒屋の前にある、ガチャガチャしてきたらええ」
「ほんまか! おっちゃん」背の高い少年が、涙をふき、笑顔になる。小さい方は、転がるようにして、倉本のそばまできた。
「遊びたいだけ遊んできたらええ」
 倉本は五千円札を一枚出し、子供らに手渡した。
 子供らは、先を争って出て行った。

「おい、茶」と、田能村はタケルに命じた。
 タケルの顔は青黒く腫れ上がっている。増田に殴られた痕が癒えていないのだろう。倉本とけっして目を合わせない。
 倉本は紙袋を肩の上にあげる。「持ってきてるデ。お近付きのシルシに、いっしょに一杯、やろうと思てな」
 田能村はようやく警戒心を解いた顔つきになる。
「日本酒が好みやったら、こっちは口にあわんかもな」
 スルメと角ビンを取り出す。
 田能村は表座敷に出てきた。
「おい、湯呑み」
 タケルはのろのろと動く。立ち上がると、余分な肉が一グラムもないことがわかる。男物の長めのアンダーシャツの下には膝上の短いズボンだけ。
「ほな、ちょっとお邪魔さしてもらいまっさ」
 倉本は靴を脱ぎ、そろりと上がった。

「今回ばっかりは、完敗ですワ」
 田能村はあぐらをかき、ニヤリと笑った。金歯がピカッと光る。
「このあたりは住みやすそうやなぁ」
 田能村は手渡された角ビンの蓋をねじ切り、
「あんたが、シャレのわかる男でよかった」
「見倣いたいですワ、ほんまのこと」

 田能村も増田と同じで、口を開くたびにアルコール臭が漂う。湯呑み茶わんにそそぐと喉を鳴らして飲む。増田が禁煙パイポを使うのはこの臭いを消すためだったようだ。

「騙したの、騙されたのと、考えが小さい。そのときどきが出たとこ勝負の世の中で、おのれがこれと思うてクビを突っつんだ仕事が、思うようにはかどらんから言うて、こちとらのせいにされては身ィがもたんわい。そやろ」
 倉本は頷き、「モノは相談ですけど、私がその気になって賛助会員を増やすいうのはどうですやろ?」
 田能村は湯呑み茶わんを持つ手を前へ突き出し、「その話できたんやったら、先に言うてくれたら、寿司でもとったのに」
「買うてきてまっせ」
 田能村はこれ以上、笑顔になれないという顔つきになる。「いやなに、定款を売りさばいても、たいした金にならんから、保険の仕事に切り替えようと近頃、思うようになってたんやけど、タケルしか目に入らん増田やなしに、あんたと組むほうがええかもな」
 倉本は天神橋市場の激安スーパーで買った巻き寿司を出した。
 田能村は咳き込む勢いで口の中に放りこみ、飲みこむ。
 倉本はもう一本の角ビンを開ける。
「一人で、ぜーんぶ、飲んで食べてください」
 湯呑み茶わんにストレートウイスキーを注ぐ。

 田能村はしばらくすると、居眠りをはじめる。
 半眠りの状態でも、まだ飲み食いしたいのか、片手に湯呑み茶わん、もう一方の手に海苔巻きの寿司をつかんで離さない。

 タケルは途中から異変に気づいたようだ。アンダーシャツの上にTシャツを着て、ジーンズをはき、倉本の手の届く距離にすり寄る。
 息を殺して見つめている。痩せた胸の動悸が聞こえてきそうだ。
 一本目の角ビンは相手に開けさせた。二本目は昨夜のうちに、鎮痛剤を粉にして混ぜていた。もし、田能村が下戸だったら成立しない。
 田能村は言った。そのときどきが出たとこ勝負だと。
 倉本はタケルにビニール袋を持ってこさせると、ハサミで端を三角形に切りとる。
 いびきをかきはじめた田能村の口に、ビニール袋を押し込む。そこにウィスキーを流しこむ。むせかえり、噴水のようになんども吐くが、ためらわずに流しこむ。
 呼吸が止まるのに、さして時間はかからなかった。
 急性のアルコール中毒と診断されるだろう。
 倉本は家を出ると、来た道と反対方向に歩いた。
 タケルが、田能村の変死に倉本が関わっていると告げるかどうかも、相手の判断にまかせようと思っている。

 数日後、田能村の葬儀がすんだ頃に、倉本は古着屋でスーツを買い、タケルのもとを訪れた。
 タケルは、アタッシュケースとメタルフレームの眼鏡を差し出した。アタッシュケースの中の禁煙パイポは捨てる。
 
 母親が出所するか、次の男が見つかるまでの仮の人生かもしれないと、ふと思った。
 
 弟二人は昼間、倉本に遊んでもらい、くたびれて、ぐっすり眠っている。

 増田が死ぬほど欲した少年の体は骨が細く、抱きしめると壊れそうだった。膝の上に抱き上げ、胸を合わせても、重みが感じられないので抱いている気がしない。タケルは田能村と入れ替わった倉本を接待する気持ちでいるのだろう。
「いそがんといてくれへんか」
 薄い敷布団の上で向かいあってすわると、「立ってくれるか」とタケルは不愛想に言う。儀式のようだと倉本は思った。タケルは濃い眉を真ん中に寄せたまま、ジャージの上下を着た倉本のズボンをいきなり、足首まで引き下ろす。「ナニすんねん」と思わず、倉本はタケルの頭を小突いた。
「しっ」とタケルは小声で命じる。次第に腹が立ってくる。二人の男を死なせた相手にとる態度かと思うと、殴りたくなる。しかし、すぐに、苛立ちは興奮へと変化させられる。
 アンダーシャツと下着一枚のタケルは、風俗嬢のように倉本の性器を両手を使って刺激し、一秒でも一分でも早く、精気を放出させようとする。健気だと言ってもいい。数えられないほどの男たちの性器をなんの感情ももたずに指と掌で屹立させ、白濁した液体を口で受け止める。こうすることが、生きのびるすべだったのだろう。
 倉本は増田の言う極楽を味わった。
 タケルは、倉本の性器のまわりをティシュできれいにふき取ると、弟の眠っているところへ行こうとする。引き止めて、唇を重ねようとすると、「もうすんだやろ、しつこい」と吐き捨てる。タケルは、唇を合わせることも、手や舌で性器に触れることも拒む。体を見せることさえない。
「うんざりや」
 男が嫌いだとタケルは言う。
「ほんまのトシはいくつなんや」
「もうちょっとで十五や」と、背中を向けたまま言う。
「おれは、田能村や増田とおんなじなんか」
「みーんな嫌いや。ナオちゃんもな」

 気づくと、殴っていた。弟たちは目を覚まし、倉本を憎悪の眼差しで見つめる。真夜中に、弟二人を、倉本は家の外へ追い出した。二人の泣き声が倉本をさらに逆上させる。華奢な少年を殴り、蹴り、血まみれにした。増田や田能村の怨念が自分に乗り移った気がする。もしかすると、退職したMデパートの外商部長だった吉永も同じ目にあったのではないか。母親が殺した相手もーー。

「言う通りにするから、弟たちを家に入れてくれへんか」黒い瞳には感情がない。

 弟二人を押し入れに閉じこめる。

「男とするのはじめてやから、痛くないようにしてな」と、タケルはうつ伏せになりながら言った。顔は腫れあがり、体中、傷だらけだった。
「女とは、あるのか……」
「あるわけないやろ」
「おまえは、ヤリたくならんのか、そのトシでーー」
「精液の臭いをさんざん嗅いだせいもあるけど、アノ時の男の間抜けな顔に自分がなるくらいやったら、死んだほうがましや」
 倉本は萎えた性器を、タケルの尻にこすりつける。
「さっさっとヤれよ、オッサン」
 怒りが性器を蘇らせる。倉本は、タケルの腰を持ち上げ、果実のような性器を口にふくみ、舌の先でタケルを目覚めさせようとした。
 タケルは何がおかしいのか、笑い声をあげた。

 挿入口が異常に狭いので、倉本の性器をタケルの肛門は受け入れることができない。
「もうええ、帰る」倉本は立ち上がり、自分の脱ぎ捨てた服を探そうとした。どこにも見当たらない。
 強い衝撃が後頭部を襲った。一瞬で、意識を失った。

 倉本は気づくと、自分がうつ伏せになり、タケルの雄々しい性器が自分の肛門を貫いていた。体の自由がきかない倉本はモヤがかかったような頭を、なんとかもたげる。意識が朦朧としてるのに、性器は覚醒している。
 究極の欲望が満たされたことを倉本は知った。
 タケルは弟二人に手伝わせて、倉本の臀部を持ち上げさせる。膝を折り、尻を差し出す倉本を、タケルはなんども突き上げる。倉本は苦痛のあまり、呻き声をあげる。弟二人は、笑い声をあげて、屹立する性器をもてあそぶ。
 苦痛が快楽となる瞬間、鋭利な刃物が脇腹を抉った。

「死ぬまえに飲ませたるワ」と、タケルは笑い声で言う。
 兄弟三人で倉本を上向かせる。
 激しい痛みに耐えきれず、倉本は叫んだ。「殺してくれっ」
 小さい方の弟が、喚く倉本の口の中に小便をする。大きい方の弟は、倉本の顔にまたがり、射精した。かたわらで、タケルは肘をついてじっと眺めている。意識が遠のいていくーー。

 タケルは倉本に口づける。「さよなら、アホのナオちゃん」

 つかのまでもいい。生きている悦びが感じられるなら――倉本はタケルの精液を飲みくだしながら深い眠りに堕ちていく。

   完


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