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胞衣(えな) 【中篇小説】 

 娘の手を引き、精神病院への長い道程を歩いている。あの人に会うために――。

  

 古都に不似合いな紙つぶてのような雪が降った日の朝、私はR病院の内科病棟にはじめて足を踏み入れた。つい昨日まで研修医だった私は指導教官から不手際を罵倒されつづけ、脳細胞は奇跡でも起きないかぎり活性化しない状態になっていた。

 それでも未知の分野に対する意気込みだけは心身に満ちていた。しかし若いナースを従えて病室に入ると、病院特有の消毒液の臭いにまじって何か得体のしれないものが腐食したような臭気が鼻をついた。とたんに、張りつめた緊張感が萎えた。

 この臭いは、なんだろう。

 クランケ(患者)を診る前に眉をしかめていた。北向きの病室は四人部屋で、ベッドは田の字に配置されている。隣接する染め物工場の竹薮を借景する窓に陽は差し込まない。
 病室にはスペースを区切るカーテンがないので開放的な印象を受ける。

 私はゆっくりとカルテを確認する。「えーと……」

 入り口に近いベッドのクランケのカルテが一番上のはずだ。ナースは私の背後でじっと控えている。力量をためしているのだ。
 鼻につく臭気のせいでいつもの自分に戻れない。
 シーツのかかった毛布が空中に跳ね上げられ、ふわりと私の足元に落ちた。突然のことで驚いていると、ベッドに横たわっていたクランケが天井から吊られるように両手を頭の上にあげた格好で起き上がってきた。一瞬、ロボットかと思った。

 全裸の少女だった。

 尖った腰骨と恥骨、それに恥毛が目の前で停止する。見上げる。自分の陰部を人に見せて性的満足を得る〈エクシビシオニズム〉かと思ったが、そうではないようだ。痩身の体型もだが、整った顔立ちの無機質な表情からは、だれも寄せ付けない冷淡さがうかがえる。

「おはよう」と声をかける。

 すべてを晒したからだからは、病室にただよう臭気とは相容れない果実のアンズに似た甘ったるい匂いがただよう。
 ナースは少女を視野にいれない。私はかがんで毛布を拾い上げる。少女は私と目が合うと、むき出しの下半身の恥部を隠さずに両足を大きく開いた。
 両腕は天井にむかって突きだしたままだ。
 まっすぐに切りそろえた前髪とふくらんだ胸の丸みとが目をひく。性器をおおう濃い茂みの他は3Dの映像を見ているようだった。

「寒くないの?」私は象牙色のからだを毛布でおおい隠そうとした。

 内科の消化器を専門とする私はクランケの突飛な言動を想定していなかった。いきなり全裸の少女を眼前に置かれると、医師であっても目のやり場に困る。
 なぜか、頭の芯が揺れる。少女の眼差しに淫靡なしたたかさを感じとったたせいかもしれない。

「どうしてパジャマを着ないの?」私が問いかけると、少女は青白い頬にうすい笑みを浮かべた。
「うざったい」少女は吐き捨てると、肩にかかる黒い髪を揺らした。同室の三人は声を上げて笑った。彼らは充分に大人であるが、それぞれのやまいのせいか、良識に欠ける傾向がある。

「美人のセンセがぶっとぶ」と、眼鏡をかけた肥満気味の女性が言った。
「地獄の一丁目がきた!」と老女が言った。「恐い、恐い」
「腕が融ける」と、無表情の女性が意味不明の言葉を口にした。

 三人はマクベスの栄光と破滅を予見した魔女のように一言づづ言った。若いナースは怒りで頬を上気させると、正義の味方の登場を促すように私をふりむいた。
「西条先生、お願いします」
 私はカルテに目を落とす。山本玲花、十七歳。病名は、「真正てんかん及び薬物による中毒性肝炎。人格障害の疑いあり」とある。わけのわからない神経症には、人格障害の病名が往々にしてつけられる。
 全裸の少女の症状も理解不能の一語で処理される。

「あんた、だれ」
 猜疑心に満ちた口調に対して、西条由季子ですと名乗るべきかどうか迷っていると、全裸の玲花は細いあごを突き出し、口ずさみはじめた。
「びびってら、びびってら、どうしたらいいか、わかんねぇ、びびってら~」
 ヒップホップで自己主張をする声が、ゆるい暖房の病室に流れる。「気分はどう?」とたずねるが効き目はない。
 私は聴診器を首にぶらさげた格好で、ぼんやりと突っ立つ。
 年齢こそナースや少女より上回るが、現場医療に関してはベテランとはいいがたい。クランケの少女も同感らしい。片腕を私に向かって突き出した。脈をとろうとすると、ひらりと手の平をかわされた。

「男のセンセに診てもらいたい」と玲花は言った。
 ナースは私にかわって言った。「診てもらえるだけ、マシでしょ」
 毛布をからだに巻きつけ玲花はベッドから滑りおりると隣の老女のベッドに腰かけようとした。
 ナースは両腕を広げて阻止した。
 老女は起き上がり、笑い声と拍手の声援を送る。便臭がする。私はめまいに襲われる。母が寝たきりなったときと、同じような臭いを嗅いだ。
「センセェ、お願いしま~す」と玲花は歌うように言った。
 ナースは毛布にくるまった玲花の腕をつかんだ。ナースの手にそえるような格好できゃしゃな手首に触れる。そのとたん、玲花は痛みを訴えるわざとらしい悲鳴をあげた。私は瞬時に手をひっこめる。ナースは目を吊り上げ、私を見上げた。

 私はおもむろに口を開いた。「異常はないようね」

 玲花は勝ち誇ったように唇のはしで笑うと、老女の肩にもたれかかるようにしてベッドに腰かけた。ナースと二人がかりで診察はおろか、衣類を身につけさせることすらできない。

  

 異変を察知したのか、看護師長が乗りこんできた。向かいの二人は巻き貝のようにベッドにもぐりこんだ。ナースはほっとした顔つきで、玲花の自由行動を看護師長に訴えた。
「手に負えません」
 看護師長は眉をしかめてうなずくと、毛布をまとっている玲花の胸を人差し指で小突いた。玲花はわざとよろめき、そばに立っていたナースの腕に助けを求めた。
 ナースはバランスを失って玲花の上に倒れこんだ。将棋倒しの犠牲になった老女は蛙をつぶしたような声を上げた。
 看護師長は玲花のうめき声と思ったのか、老女とナースを脇にどかせると、毛布のめくれた少女の裸身の背中を、ぴしゃりと平手で打った。玲花は丸虫のように横向きに丸まった。
 染み一つない肌の背中がたちまち朱色に染まる。

「センセ、このくらいは、ご自分でやってくださいよ」看護師長は私に意見した。

 突然、玲花が目をむき、全身を痙攣させる。
「いつもの、癲癇やっ」と老女が叫び声を上げる。「伝染(うつ)される!」
 痙攣中は呼吸が止まる。数秒後、痙攣がやむ。私は白衣のポケットにあったハンカチを玲花に口に噛ませる。玲花は約二十秒ほどがたがたと震えていたが、大きな息をした。ハンカチを取り出すと、唾液を吹き出し、白い泡を吹いた。赤い唇のまわりが、白い泡状のヨダレで濡れる。そばで見ているだけで、胃がねじれるような痛みが胸に走る。
 
 おむつをしている老女が騒ぐたびに撒き散らされる臭気が、私を一層息苦しくさせる。看護師長はナースに老女のおむつを替えるように命じた。前任者の診断では、肝臓がんの術後に認知症が加わっている。

「しばらく眠るでしょう」看護師長はそう言って眠りにおちた少女の顔を覗き見た。
 私は玲花の額に手をおき、発熱していないかどうか、確かめる。微熱がある。
「つぎの患者へ――」と、看護師長は診察を促す。
 私は腹立ちを悟られないように、意味不明の言葉を発したクランケのベッドへ近寄る。

「星の位置がわるい」と、二十五歳の女性は言った。「丑寅の方角に詣でないと、腕が溶ける。鬼神のものとなる」
「どういうことかしら」と訊き返す。
「霊媒師の言葉を信じないのか」
「丑寅の方角がわからないわ」
 彼女は枕に顔を埋めると、嗚咽した。
「胆管に胆石ができて、手術をしたさいに、胆嚢と胆管の摘出手術したところ、何も聞いていなかったと言って……」
 私は彼女の手をとり、「だいじょうぶよ、胆嚢の役割は肝臓が果たすからね」と言った。
 彼女はふいに顔を上げると、爆笑した。
 看護師長は腕組みをすると、笑い声を止められない自称、霊媒師の頬をいきなりつねる。女性は痛みを訴えるかわりに、ニヤリと笑った。
 黄色い歯がこぼれる。カルテには、アルコール依存症とある。
 アルコール依存症にありがちな黄色い歯のせいで、年齢より老けて見える。吸引力のある笑顔で看護師長に応じている。看護師長の目に怒りがみなぎる。
「飲んだでしょ。白状なさい!」
 彼女は片目をつぶって見せる。看護師長は手をふりふげると、彼女の横っ面を張った。止める間もない。

 穏便に対処したい、と思った矢先だったので、看護師長をたしなめた。
「師長、冷静に……」
「先生は黙っていてください!」と、看護師長はいきり立つ。「この患者は、焼酎を牛乳で割って飲んでいるんです。だから、臭いが消えるので現場を押さえない限り止めようがない」

「ザンネンでした」と横から口を出す眼鏡の肥満女性。カルテには、急性膵臓炎とある。
 看護師長は唇をぎゅっと噛みしめた。「あなたが、頼まれて、買い出しに行ったのね」
 私とナースとは顔を見合わせる。
 彼女は身を守るためか、毛布を首まで引っ張り上げた。
「今夜のところはいいでしょ」
 私は独り言のように言うが、看護師長は毛布をはぐと、彼女の髪をつかんだ。
「あっちに入ってもらってもいいのよ」
 この病院と提携している精神病院のことを言っているのだと瞬時にわかった。ここは表向き、外科、内科、泌尿器科などを有する総合病院であるが、外傷や内部疾患の他に神経症を患う長期入院患者も少なくない。その場合、院長が懇意している隣区の精神病院に送られる。車だと、十五分もかからない距離にある。
「引き上げましょう」私は看護師長の肩ごしにささやく。
 看護師長は私の言葉を無視した。「あんたたち、覚悟しなさいよ」

 覚悟ときいて、クランケではなく私のほうが恐ろしくなる。同じチームで働くようことになって、わずか半日だが、看護師長が意にそまぬクランケやドクターを容赦しない性格であることは言葉遣いからわかる。仕事一筋に頑張ってきた女性に時折みられるタイプと言っては言い過ぎになるかもしれないが、極度に落ち度をきらう看護師長に人間的なあたたかみは感じられない。
 勤務第一日目にクランケに手こずる私など、看護師長の目からみれば医師の資格がないとさえとうつるにちがいない。

「病院はここだけじゃない」という看護師長の捨てぜりふに、霊媒師と眼鏡はブーイングの仕草で対抗した。
 思ったことがすんなり口に出せない私自身には考えられない、彼女らの言動ではあるけれども、その奔放な振る舞いは私の奥深いところで常に培養している願望の体現でないと言い切れない気がした。

  
         
 数日後、霊媒師は退院し、老女は末期治療のポスピスに家族が転院させた。これを好機と見たのか、看護師長は担当医の私に相談もせず、四六時中監視ができないという理由を盾に、山本玲花を提携している精神病院へ転院させるように内科部長に具申した。
 たしかに人格障害であることはまちがいないが、精神病院に入所しなくてはならないほどの重症とは思えない。しかし、自由行動の顕著な少女を引き受ける総合病院はまずないとっていい。看護師長は諸事情を知りぬいたうえで隔離しようとしているようだ。

 私は余程、病院長に直訴しようかと思ったが思いとどまる。家族のもとに返すほうがいいと考えたからだ。すぐさま、古くからいる、年配のナースにそれとなくたずねると、月に一度面会に訪れる玲花の母親は絶対に少女を引き取らないという。
 いままでにも、なんども看護師長が嫌がらせをしたが、そのつど母親は玲花の訴えを他人事のように聞き流してきたというのだ。 「まだ子供です。先生、助けてやってください。いまのままでは、死んでしまいます」と言ったそうだ。
 年配のナースは看護師長の仕打ちを憤っているふうである。看護の立場の者から見ると、無責任極まりない母親の態度もおおいに問題はあるが、玲花を精神病院に移すことはそれ以上に酷だという思いがあるようだ。

 週末の面会日を待って、母親に会うが、要領を得ない私の話に母親はまったく耳を貸さないばかりか、薬物依存症のクランケの家族のための勉強会にも、河原町にある店がいそがしいと言って参加しようとしない。
「あのコが、お店のお客さんとおかしなことになって、クスリ漬けになった病気ですえ。うちが勉強して、なんの役に立ちます?」
 代理の人でもいいから出席するようにと促すと、母親は本気とも冗談ともつかない顔つきで言った。
「うち、店では、独り身やいうことになってますねんえ」
 看護師長に付き添われた玲花が面会室に入ってくると、母親は娘をうっとうしげに見やり、
「入院する前より、わるぅになったように見えますけど、どんな治療をしてもろてますのやろ。かなんわぁ」
 看護師長は母親の座っているソファに歩み寄る。精神病院に移る件を承諾するように言う。母親は意に介さない。
「なんで、精神病院にいかんなんのか、わからしません。入院費のことでしたら、ご迷惑をおかけしたことはただのいっぺんもあらしまへんえ」
 本音とも冗談ともつかない母親の口ぶりは私の笑いを誘う。看護師長には理解できない感情だと思うが、世間体を気にかけ、建て前ばかりを口にする両親と永年暮らした私には、無責任な言い草が新鮮にうつる。
 玲花は母親に何事か、耳打ちした。
「新しい女のセンセが気に入ったさかい、ずっとここにいたい言うてますえ」

 脳梗塞の母を看取った経験のある私にはある面、母親の気持ちがわかりすぎるほどわかる。偽善者ぶってふるまうのもいいが、そのために自分の仕事を投げ出し、病人の世話を押しつけられたい者がどこにいるだろう。煩わしいことは誰だって、避けて通りたい。
 母親の言う、戻されては手に負えない、これが本音なのだ。しかし、本音と本音がぶつかるとどうなるか。苦労は避けて通りたがる逃げ腰の保護者に業をにやした看護師長は面会日の翌日、いつものように病室で裸になる玲花を、風呂場に閉じこめるという暴挙におよんだ。

 その午後、玲花はふいに姿を消し、ナースセンターは上へ下への大騒ぎとなる。用具入れからトイレの端まで探したが病院内では見つからず、最後には実家に電話を入れるが、帰ってませんの一言のみ。
 ナースの中には、これは警察に任せるべきだと言い張る者もいて収拾がつかない。捜索願いを出すことにためらう病院側は私とナースに病院の周辺を捜すように命じた。
 おかげで、付近の店を一軒一軒のぞいて歩くハメになる。腹立たしい。そんな私の心を読み取ったらしい、年配のナースは玲花のことをぽつりぽつりと話す。月に一度、母親の訪れる日は朝からそわそわし、売店の開く前から面会室を歩き回り、ナースが検温もできないという。ところが母親が現われると、その場で身につけているものを引き裂いたり、突然、意識レベルがおちて卒倒することさえあるという。
 前回の面会日はめずらしくおとなしかったのだと言う。

 私はただの一度でも母親をそんなふうに待ったことはない。父親とは名ばかりの再婚相手の叔父が、子供だった私に性的暴力を加えても見て見ぬふりをした母に対して憎しみの感情しかもてなかった。

 私はナースに玲花の捜索をまかせると一旦病院に戻る。落ち着かない気持ちでいると、彼女の母親から電話が入る。
「えらい目にあわして、かんにんどすえ。なんせ、貧乏暇なしですよって、わがまま娘の気ままに付き合うてられしません。ほな、ま、よろしゅうに」
 私が口を開くまえに電話はきれる。仮眠室でまぶたを閉じるが一睡もできない。

 玲花はどこへ? 

 翌朝、何も手につかない。暖房のきいた部屋にいると、余計、彼女のことが気にかかる。結局、見つかったのは次の日の夜。
 場所は、病院の裏手のおでん屋。看護師長はセーターにジーンズ姿の玲花を一瞥すると、無言で立ちはだかった。
 彼女はじっと動かない。とろんとした目でこちらを見る。どこで手に入れたのか、薬物を摂取した目つきである。目頭に目やにをためている。
 病院に電話で知らせてくれた店の主人に礼を言って、薄着の彼女を表へ連れ出す。看護師長が勘定を払う間、セーターの腕をとると、玲花はふふんと笑う。
 私は寒空のしたで足踏みをする。
 その足を玲花が踏みつけた。相手かまわず機嫌を損ねることに喜びを見いだしているふうである。誰かに逆らうことで家に帰れないことの憂さ晴らしをしているのかもしれない。
 思い通りになるまで泣きじゃくるわがままな子供に似ている。どこにいたのかたずねる。医師は患者のブライバシーに立ち入りすぎてはいけないと思いつつ、なぜか玲花の足元から目が離せない。

 玲花はソックスもはかずに、病院のスリッパを履いている。

 これは憶測の域をでないが、母親との関係だけが原因でなく、てんかん症であることで、子供の頃に味わった心の傷が彼女を薬物に向かわせているように思う。
 玲花自身は気付いてないが、彼女には非常にデリケートな一面がある。ナースに聞いたのだが、爪がのび、黒く油染みているので切るようにすすめると、それだけで彼女の顔はボールのようにむくみ全身硬直し歩けなくなるという。

「具合はどう?」
「だれの?」
「きまってるでしょ」

 玲花はもどかしげに黒髪をかきあげ、口元を小さく歪めた。そして、もう一度、私の足先を踏みつけた。

 心配は的中した。連れ戻された彼女は心身反応が異常につよく出る。箸が持てなくなり、日常生活は全面介助となる。一口にヒステリーとかたづけられない何かがある。面倒を見きれない、と看護師長は言うけれど、私は『隔離や自宅療養は不可能』の診断を変更しないつもりだった。

 看護師長にそそのかされたのか、ナースセンターにやってきた事務長までがクランケの選別も大切などと口出しする始末。無断外出をするにおよんで、規則を守らない彼女の無責任ぶりには看護師長ばかりでなく、事務長も閉口しているようだ。

 病院側も事と次第によっては隣区の精神病院に移すという。手間のかかるクランケにはそのほうが身のためなんだと事務長は平然と言うが、私は玲花を排除することが病院にとって最良の選択だと思えない。しかし、いまとなっては病院側の決定を待つばかりの状態となる。私は外来の診察室に玲花を呼んだ。玲花は虚ろな眼差しでやってきた。私は診察を口実に抵抗の理由を聞き出そうとしたが、固く閉じた唇からは何も聞けなかった。

 自らの無力を感じた。

 翌々日、玲花は病院の調剤室に侵入したところを看護師長に取り押さえられるという事件を引き起こした。看護師長は自分の目にかからない所へ彼女を追い払いたい一心で行動に出た気配だ。玲花と同室の肥満女を手なづけ、彼女の行動を事前に察知したのだ。
 肥満女は玲花が調剤室に忍びこんだ時点で、看護師長に携帯電話知らしたらしい。大勢で玲花を取り押さえた模様である。

 駆けつけると、ちょうど看護師長が玲花を廊下に引きずり出そうとしているところだった。看護師長は半狂乱のていで、玲花の頭にそこら中のゴミを投げつけていた。止めに入らなければ、玲花はどうなっていたかわからない。
          
 玲花の精神病院への転院はその日のうちに決まった。
 一週間後の移送を、看護師長は玲花とさして変わらない歳ごろのナースに申しわたす役目を申しつけた。
 もうどうすることもできないのか。
 年配のナースは哀願するような眼差しで私を見る。私は他のクランケを診察をしながら、思案する。
 自由に出入りのできない精神病に閉じこめられた彼女を想像するだけで恐ろしい。玲花も不安なのか、回診に行くと、いつになく多弁になる。
 両親が離婚したために六歳まで祖父母に育てられたことや、実の母親と再会した時の違和感や、いきなり現われた新しい父親との同居のことなどを話した。
 母親は独身じゃなかったのか? 

「あのオンナ、あたしを自分の子供やと思てないねんしぃ。そやから、追い出しにかかってる」

 玲花は病院に強制的につれてこられたという不満をいまも持っている。自分に非があるとはかけらも思っていない。興奮して話しつづける。

「知らんおっちゃんのせいで、あたしがジャマなんや」

 私は話の切りのいいところで、いやがる彼女に精神安定剤を飲ませると、事務室に降りた。
 彼女を引き取ってくれる病院はほんとうにないのだろうか。長期入院は今回がはじめてということだが、これまでにも薬物だけでなく、シンナーの吸引が原因で入退院を繰り返した形跡のある彼女の経歴を調べてみることにした。

  

 外来での初診は今年の五月なのでもうすぐ七ヵ月になる。
 彼女が発病したのは平成十一年(1997年)のあたりと保険証の記録からわかる。二年余の病歴。その間、A病院に急性肝機能障害の病名で数回入院している。
 病院と両親の双方から匙を投げられる前に本人の自覚で症状の悪化を食い止められなかったのかと思うが、小料理屋を経営する実家にいては、意志の力うんぬんを言うのは酷なのかもしれない。

 まだ十七歳なのだ。

 退院後も薬物に触れる機会を避けられないことから次第に強度の依存症になったものらしい。覚醒剤ばかりが薬物ではない。薬局で売られている睡眠導入剤、酔い止め薬、生理痛に効き目のある痛み止めなど、大量に摂取すれば肝臓を患う。
 現在も時折、てんかん症による意識障害がみられ、安穏としていられない状態にある。このままだと肝性脳症でいつ危篤に陥るかもしれない。そのことを先日の三者面接のさいに、母親に伝えたつもりなのだが……。
 見習いナースが事務室におずおずと入ってきて、何か言いかけて口ごもる。病室に行くと、暑くて気持ちわるいと彼女は言って、身をくねらせる。毛布がまくれあがり、ぞっとするほど白く長い足が蛇がうねるようにベッドの上でうごめいている。彼女は下着を着けていない。私に向かって目をしばたく彼女に死への恐れがあるようには見受けられない。       

 わけのわからない歌を、玲花は口ずさむ。            
 依存心の強い性格なので医師やナースを困らせることで気分を紛らしているのかもしれない。ナースも人の子である。わざと挑発する彼女を疎んじても仕方がない。それでもなんとかしなくては、と私は彼女の母親に電話をする。
「いままでのように、勝手はゆるされないでしょう」と告げる。
「へぇ、ようようわかってます」

 精神病院がどういうものか、母親は知らない。心身反応の過剰な玲花にそれがどういう結果をもたらすのか予測がつかない。閉鎖病棟にでも入れられれば、玲花の神経はもたない。

「医師の回診も毎日ありませんし、家族の面会も制限されます」
 と説得するが、
「ほない言われても、家へは入れられませんし」と母親はのんびりと答える。
 優柔不断な言い逃れが娘の生死を左右するとは露ほども思っていない。
「いい病院が見つかるいいのですが」と私は転院をすすめてみる。「うちには、病人のおらす場所がおへん」と母親は言う。
 なんて親だろう。たった一人のかけがえのない娘ではないか。 「お子さんがどうなろうと、かまわないのですか」
「狭い家ではどうもしてやりようもない、言うてますねん」
 私に母親の心を変える力はないと悟る。言うだけのことは言ったと諦めるしかない。しかし、このままでほんとうにいいのだろうか。

 精神病院に転送される前の日。握手しょうと彼女はナースの顔さえ見れば誰彼なしにせがむ。さんざん手こずらされたあとだけに素直に頷ける者はすくないはずだが、ほんんどの者はこだわりを捨てた明るい表情で手を差し出す。誰一人、いまより症状がよくなると思っていないにかかわらず。
 彼女は、「センセも」と言う。
 私は彼女の骨のないような手を握り返しながら、身のまわりの持ち物にも気を配る。母親が来ないので、パジャマや下着の替えがないはずである。

 転床の当日、私は夜勤明けの朝にあたり、彼女の病室をのぞくと、彼女がいない。もしや、と一瞬あわてるが、湯沸かし室の物音に気づいてドアのノブに手をかける。空気を震わす声がもれてくる。金縛りにあったように鍵穴に目をこらす。
 鏡に向かって頭をゆらす彼女を見つける。のぞき見る私の気配にも気づかない。洗面台の縁に下腹部を押しつける彼女は、上下にからだをゆすりながら、細い腕ではだけた胸を抱きしめる。律動感が私のからだにまで伝わる。
 鏡に写る自分の顔に口づける彼女。ストレートの髪が鎖骨をおおっているせいか、私は彼女をムンクの絵に描かれる少女のように感じた。 

  

 午後、彼女を見送り、一人住まいのマンションに帰ってからも、彼女の横顔と喘ぎ声が頭の隅から消えない。
 郵便浮けをのぞくと、義理の父からハガキがきている。相続のことで話し会いたいとある。義理の父には子供がない。父は母の死後、自分の財産が私にいくことを望まず、養子縁組の関係を解消したいと言い出している。
 性的虐待に対する慰謝料はないということか。
 親に逆らう、わがまま放題の実子でもいればの父の幼児への渇望も暴れださず、私が被害をこうむることもなかったかもしれない。

 一週間後。私は玲花の新しい担当医に呼ばれる。精神病院での彼女は誰かがベッドサイドにいる間は穏やかなのだが、いなくなると、くるしい、誰かーと叫び続けるという。
 周囲の患者が強度の精神病の患者だったことがショックだったらしい。ナースがそばに付き添わないと死ぬ、死ぬと泣き叫び、壁を叩き、尿失禁の症状さえ見られると聞かされる。
 ナースが手を焼いている、週に一度程度でいいから、顔を出してもらえないかと担当医は言う。
 私は困惑する。いまさら何を――という気持ちである。しばらく考えさせてください、と生返事をした。勘繰れば、婦長は新しい担当医に入れ知恵し、私まで取りのぞく算段なのかもしれない。

 それから、何日もしないうちに、玲花の症状は急激に悪化する。私は彼女の担当医の要請で病室に駆けつける。
 彼女は、目を開けたままウーウーとかギャーギャーとか叫び、声をかけても応答しない。離脱症状である。全身黄染、腹満、四肢の振戦、アンモニア臭。意識が混濁したのち突然、痙攣を起こし、見る間に血圧が低下したとのナースの説明。担当医の指示でただちに集中治療室に運びこまれる。ストレッチャー上の彼女はすでにうわごとを言う気力もない。

 こういう場合の処置は股静脈から上肢静脈にカテーテルを挿入し、血液ポンプで血液を体外循環させる血漿交換しかない。一刻を争う事態である。私は玲花の母親に連絡をとる。様態の急変を伝える。

 電話口の母親はいつもとうってかわり声をうわずらせる。私は受話器をしばらく眺める。虚を突かれた思いである。あの母親なら、わが子の死にぎわにも冷淡でいられるような気がしていたのだ。
「死にかけてますか? 中途半端はどうもすっきりしませんよって、切りのええ、息が止まったとこで知らしてちょうだい」ととでも言うかと思っていたのだ。自分と同じように彼女が母親に見捨てられることを望んでいたのだろうか。

 三時間かかって、約五リットルの血漿交換を行なう。午後からは休みだったが、症状が気になって勤務を替わってもらう。物好きだとこの病院の医師に笑われる。好奇心ゆえの行いなのだと自分に言い聞かす。
 交換装置は複雑な器械なのでコード類が床に散乱する。それを固定し、コンセントの位置を確認し、危険を防止する必要がある。チューブとの接続部を点検しながら、絆創膏だらけの彼女を私は見守る。彼女の青白い眼窩は瞳の形に沿って窪み、顔の相が変わっている。死なせてはならない、私の力で直してみせると私は妙に意気込む。
 玲花は静かに昏睡している。
 こうして大人しくしていると、意識下の彼女が静かに目覚めてくるように思える。過去が消えて無くなりそうな錯覚。はかないと言えばそれまでだが、彼女が覚醒しなければならない事情など、考えてみればどこにもない。

 このままそっと眠らせておけばいい。私は眼球の位置を確かめるように彼女のまぶたに触れる。長いまつげに触れる。眼球は夢でも見ているのか、動いている。鼻筋から唇へと指でなぞると、湯沸かし室での彼女の行為が脳裏によみがえる。
 小鳥がさえずるようにかすかに震える唇の内側に指をすべりこませる。あたたかい。硬い歯をつつむ粘膜のぬめぬめした感覚。胎児をつつむ膜や胎盤の総称を胞衣(えな)という。私は自ら指で彼女の口中にある胎盤を破ろうとするかのように、粘膜を突つく。
 寝顔を眺める。一晩中付き添う。彼女は意識を取り戻さない。私は心電図から目を離すと、もう一度、指で玲花の唇に触れる。

 精神病院行きを強行した看護師長は突然やってきて、「かわります」と言う。
 私は非常に不快な思いがする。
 看護師長は、勤続二十五年になるという。心のこもらない言葉を患者に投げかけることではじまる一日一日が目に見えるようだ。 「私の顔がどうかしましたか」
 看護師長が私に問いかけたその時、ベッドの玲花が何かを払い除けるような動作を示す。氷のような指先を私がつかむように握ると、彼女は眉をしかめる反応を続けてみせる。
「簡単にくたばらないとは思ってたわ」と言う看護師長をのこし、私は集中治療室の外で待機しているはずの母親に娘の回復を知らせる。

 母親は唇をわずかにすぼめると、「もう、大丈夫いうことですか。ああ、かなわんわぁ」と付け加える。
 その目は気落ちしているように見えて、喜んでいるようにも見える。
「お宅へ迎えてあげてください。次の病院は私が責任をもって捜しますから」と言う私に、母親は、「他人さまに口出ししてもらうようなことやおません」
 私は母親を見つめる。醜くはない。皺も目だたない。血色のいい頬に、傷のような、えくぼが一ヶ所確かめられる。
「へぇへ。そないせなしょうありませんやろな。往診してもらわなんけど」と母親は言った。
 私は声を出さずに笑う。
「なんぼほどかかりますやろか」と母親。
「からだで払ってください」
 私はなぜ、玲花が生死の境を彷徨っているときにつまらない冗談を口走ったのだろう。
 母親はつぶやく。「またあのコのことで悩まんなんのかしらん」

 信じられないが、彼女は助かったのだ。だが、私の思惑と違って、彼女は強制退院という形はとられず、元の総合病院の四人部屋の病棟に戻されることに。その場しのぎの医療であっても、無いよりましだということか。

 何事もない日がしばらくつづく。

 義理の父が病院に訪ねてくるということさえなければ――。
 話し合うことは何もない。面会室に出向く。共に暮らしていた一時期、義父は私の帰りが遅いというだけの理由で私を殴打し、そのあと、母に隠れて襲いかかる。世間ではエリートと言われ、自分自身もそう思っていであろうに事実は変態性欲者である。
 私は当然、フィフティ・フィフティの離縁、つまり財産分与をのぞんだが、義父は私を恩知らずなやつと蔑む。
「大学まで出してやった恩を忘れたのか」と義父は言いつのる。
 私のなかで何かが弾ける。「あんたが、私にしたことはどうなるの」
「きみもれっきとした医者のはしくれだ。自分が何をしたか、わかっているな」と義父は言う一方で、「まさか、裁判だなんて言い出さないだろうね。お互い、証拠などないんだよ」と猫なで声で牽制するも忘れない。
 弁護士と相談すると言うと、義父は激怒し、「ビタ一文やらぬ」と言う。義父の言を待つまでもなく、私は医者のはしくれだが、感情を抑制できないときもある。衝動的な行いをいっさい断てるわけではない。相手がその気なら、徹底的に争うしかない。身の破滅を招く結末なろうと。
「いつか、思い知らしてやる」と父は嗤う。「化けの皮を剥いでやる」

 その時、ドクターコールのランプが点滅する。

 私はいささかうんざりした足どりで玲花の病室に向かう。八日間ほどで回復した彼女は以前とかわらない反抗的な態度で、私とナースを閉口させている。自由行動もますますひどくなり、ベッドから三度も落ちる始末。病室をのぞくと、看護師長の手先の患者が逐一告げる。
「ほら! あの格好。布団に隠れてごそごそしてるでしょ。監視の目ェを盗んで、イヤらしいことしてるんですよ」

 肥満女は玲花の自慰行為を見咎めているのだ。私のもっとも苦手とする手合いである。生卵を針の先でつつくような、こういう状態が長くつづくと玲花の神経がますますおかしくなると不安に思う。

「うるせえっ」と玲花はわめく。「じっとしてられねぇ」
 私は玲花に鎮静剤を飲ませる。肝臓が悪いとわかっていても、病院は、クランケに薬剤を与えつづける。
 翌日、玲花は果物ナイフをふりかざし、肥満女にいどみかかるという事件を起こす。
 一旦、譲歩したかに見えた看護師長の怒りは頂点に達し、家族の承諾も得ずに、治癒の見込みのない精神病院のシールド・ルーム、別名、窓のない保護室に彼女を閉じこめる手配をする。
 もっとも恐れていたことだ。

 玲花の、こわれかかった神経がこんどこそくだけてしまわないか。

 手回しよく病院長の許可をとった看護師長になんと言って反論すればいいのか……。私はふたたび母親に知らせる。自宅に連れ帰ってもらうしか、彼女を守る方法がないと言うと、母親は病院にはやってきたが、退院させる意志は微塵も見せない。
 看護師長は母親に向かって、「ご心配なく」と言う。
 母親は伏し目に、「どないな具合か思いまして」とつぶやく。
 看護師長は、「暴力事件ですからね、運よく、被害者の方が穏便にすませたいとおっしゃってくれたものですから。あちらの病院に移るまでのしばらくの間、こちらの特別室に入ってもらっています」
 私は祈るような気持ちで、母親の返答を待つ。「ほな、よろしゅう、おたのみします」
 母親はそう言うと、振り向きもしないで病院をあとにする。
 私は看護師長に詰め寄る。彼女を殺すつもりなのかと。
 看護師長は口のはしで笑い、「ずいぶん、ご執心ですね。前任の先生もあのコの誘惑に負けたんですよ」と言う。
 
  
 
 私はナースセンターから鍵を探しだし、特別室へ急ぐ。入ったことはないが、噂で知っていた。精神病院に送致するときめたクランケで、他の患者に危害を加える恐れのある者を入れる場所だ。
 全体がクッションで覆われている密室の隅で、玲花はうずくまっている。彼女を抱き起こし、立たせようとするが、彼女のからだは中心となる骨がないよう左右にゆらぐ。私は彼女の肩にコートを着せかけると、病院の外へ向かう。

 人目に立つ廊下避け、雪の降りしきる中庭を通る。吹雪の中、タクシーを拾い、私のマンションの所番地を告げる。病院からの通報で、母親はまもなく事態の重要性を知るだろう。その時は彼女を連れてどこか遠くへ逃げよう。私は彼女の手を固く握り締める。うつろな目が漆黒の窓外を見つめている。

 突然、玲花が叫ぶ。「もとへ戻って、勘違いしないでよ、あんたに助けられたいなんて言った覚えない」

 運転手が私と彼女の様子をそれとなくうかがうのがわかる。感情の振幅を制御できなくなっている私はタクシーを停める。
 やみくもに彼女の手を引っ張り、雪の積もった路を北へ走る。暗闇で足が滑る。なんども転がる。
 暗闇の外界が〈胞衣〉となり、私と玲花の行く手を何者かが導く。 母の死に顔が思い返される。玲花がうずくまる。ぼろ布のようになって、私の腕から逃れようとする。
 母のように楽になりたいのだろうか。私は玲花の肩を抱き、励ましながら、別天地をめざす。雪に足をとられる。彼女はなんども転倒する。息を吹きかけるが、暖まらない。
 玲花は半ば意識を失いかけている。私が彼女の〈胞衣〉となろう。雪は止みそうにない。私は彼女を背負う。

「お母さん」と言う声にならない声が私の耳元に伝わる。

 頭の芯が蠢き、胸に痛みが走る。私の内側にわけのわからない感情が爆発しそうにふくれあがる。
 トドメを刺そうと両手を揉みしだく何者かが後を追ってくる。
 お母さん、そんな者はいらない。やつらは私とおまえを腹の中に飲み込み、噛み砕くだけだ。私は背中の玲花をゆすぶると、もう少しの辛抱だと声をかける。この雪道を越えると、私の住むマンションの屋根が見える。
「おろして、お願いだから、おろして」と玲花は哀願する。
 まるで私が彼女に意志に反した行動をとっているかのような口振りである。
 立ち止まる。玲花を純白の雪の上におろす。
 私は苦痛を長引かせる医療を由としない。
「正気じゃないわ」と玲花は私をののしる。
 私は彼女を突き倒すと、彼女の腹部に馬乗りになり、首に手をかける。さあ。おまえの望み通りにしてやろう。こうすれば、おまえをつつむ〈胞衣〉から逃れられる。私は夢中で彼女の首を締める。
 その時、玲花はつぶやいた。「ごめんなさい」
 母の最後の言葉と同じだった。母が生と死の境目をさ迷うと、自らの手で、母を死に至らしめた私を何者かが問いつめる。「おまえに慈悲はないのか」

 雪がつぶてのように降りかかり、私の手を凍らせる。私は自分のしたこと、しようとしていることの意味をはじめて知る。〈胞衣〉は憎悪であると。そして愛であると。
 
  

 彼女は、私の命の恩人。みなは、私を殺そうとしたと言うけれど、そうじゃない。あのとき、首にかけた手を放してくれた。そして、救急車を呼んでくれた。
 正気を失った彼女は、あの雪の日を境に、私が玲花だとわからない。
 いまはもう、歩くことも、話すこともない。髪は白くなり、からだも三分の一に縮んでしまった。
 結婚し、子供も生まれたけれど、私を愛してくれたはじめての人、西条由季子。

 あなたと私は一つの魂、永遠の時を生きる。


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