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言葉の先に、愛はあるのか?
久しぶりに映画 The Shape of Waterを観た。
主人公のa princess without a voiceことイライザと不思議な生き物 Heの言葉を超えた愛の物語。
誇張されたキャラクターに、ストーリーラインに、
自分の実生活にはありえないことだとファンタジーに取らえることもできる。ただ、ふと感じたことは、これは私の中でも生まれる感情なのではないかと。
自分の心の中にある感情や想いを、なんと言語化すればいいのだろう。
理解しているなら、言葉にできるはず。そう信じて疑わない。
けれども。そんなこと、できるわけがない。
なぜなら、心を全て言葉では表現できないから。
なぜなら、心を全て言葉では分かりきることはできないから。
自分の目の前にいる存在を愛する。人であろうと、環境であろうと。
そこに確固たる理由はいるのだろうか。
心の声を掴んだ時、言葉で表す理由なんて無力に過ぎない。
愛していることに、理由はいるのだろうか。
理由なんて、並べられない。深ければ、深いほど。
理由を並べられる愛は、脆いのかもしれない。
そして。思いを伝えるだけが、愛の証明ではないのだと。
伝わらなくても、相手に届かないこの想いであったとしても。
そっと想っていることも、あえて伝えないことを選んだとしても。
見守っていることも、愛に含まれるのではないだろうか。
時に、言葉以上に、瞳が雄弁に語ることがある。
それは互いの間でしか解することのできない、シグナルの会話。
イライザと彼の間には、確かに瞳と瞳の愛の交流があった。
この時、言葉を超えていた想いもあったように思う。
ただ、愛することで臆病になることはある。
この想いの先の果ては、良き結果であるのか、否か。
愛することに結果を求めると、怖いと思ってしまう。
報われないのであれば、無かったことにしようと心の扉を閉ざそうとする。
実らないのではれば、壊してしまえと破壊衝動に駆られる。
わかるよ、怖いんだ。でも、その恐怖は愛とは相容れない感情だ。
愛することは、伝わること、その想いが実ることばかりではない。
愛することは、怖いを超えて、どんな時でも優しい心で相手を思いやること。「応えてくれないと嫌だ。」は愛ではなく、エゴになる。
応えてくれなくとも、自分が愛した存在に変わりはない。
想う結果でなくとも、自分が愛するありのままのあなたのままだから。
愛するは、そんな簡単にエゴに変わりはしない。
愛を見つけた時。実らなかった時。
言葉で表せないのであれば、理由を並べられないのであれば、
相手を想うときの優しい気持ちを噛み締めればいい。それでいい。
The Shape of Waterでは、海の中で二人の愛は実ったように感じる。
喜ばしいし、よかったなとグッドフィーリングになる。
ただ、実らなかったとしても、愛していることに、愛したことに
変わりはないのではないだろうか。そこに理由も、言葉もいらないのではないか。
愛を証明することは難しい。
けれども、愛することに、愛したことに変わりはないのだと信じていたい。
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