お笑いと自分
内弁慶という言葉がある。幼稚園から小学生の頃、私は外ではおとなしく家ではそれなりにアグレッシブな人間だった。
ハウスほにゃらら劇場に代表されるアニメも好きだったが、わりと時代劇も熱心に見る渋い子供だった。そして、家族の前で、何を思ったか
「越後屋も悪よのう」
「お代官様にはかないませんて」
ほんの出来心で一人芝居をしたら、ものすごいウケてしまい、アンコールに次ぐアンコールを頼まれ、辟易した。しかし、学校ではこんな一面は片鱗も見せなかった。おとなしい人でした。
なんでそんなことやったのか?
なんでだろう?
多分、自分は、テレビを見ながらその表情と声音を覚えたので、ちょっと再生してみるか、くらいの気分だったのだと思う。こんなこと飄々といったら畏れ多いが、自分は多分、個性派俳優になれる。人の表情をよく見ている人間だからかもしれない。
それから、時代はぐんぐんと先へゆく。
女子高校生になった。ここにこんなこと書くと、ちょっと親が可哀想だが、私の親は、私に似て愛が重い人たちなので、このまま親元にいたら、大草原の小さな家のアルマンゾみたく大人になりきれない大人になるなと殊勝にも思い、私は東北の地元を出、親元を離れて関東圏の高校に進んだ。もともとは全寮制の高校で、私の頃には一部通学生を受け入れていたが、三分の二は寮生で、日本全国津々浦々から学生の集まる地方色豊かな学校だった。
バスに乗ってはお金の払い方がわからず、駅の自動改札機にビビり、東京の都会たる姿にほえーとなり、十二分に田舎者な女子高生だった。
親元にいたらアルマンゾになると、そこを脱出し、自由気ままに暮らそうと思っていたが、ところがどっこい、母校の寮はこれまたトリッキーな場所だった。
一言で言うと、会社みたいだったのである。
寮では、勉強するのは個室のブースがあるのだが、夜寝るのは共同部屋に布団を敷いて川の字で寝る。この3人は三年生(部屋長)、二年生(部屋中)、一年生(部屋っ子)で構成され、これで毎日24時間、暮らしてゆくのだ。
簡単に言えば 三年生は部長、二年生は中間管理職兼新人教育係、一年生は新入社員、みたいな関係なのである。
会社っぽい故に、一年生には上級生から言い渡される、一昔前、昭和の新入社員みたいなタスクがあった。例えば、1週間のうち何回かは、お部屋で夕食へ参ります。1年生には話題だしというタスクがあった。
「えー、本日はお日柄もよくー」
なんのことはない、おもろい話をして、上級生を笑わせろ、沈黙にするな!と言うやつだ。私が一年生の一学期の時の部屋長さんは、うちの高校で有名な美人だった。部屋中さんも底堅く美人で、陰で結構人気のある人だった。私は美人と昔から相性がいい。なんか、ペットみたいなのだと思う。よくわかんないけど。
このトリッキーな寮では、22時になると第一消灯と言って、廊下の電気が消える。22時から24時の間にみんな寝なければならないのだ。
この第一消灯後、1週間に一回中間管理職は個室ブースにいる新入社員を呼び出して、暗い廊下に誘い、二人で正座する。
これが週に一回のお説教の時間である。部屋長から部屋中に言い渡された部屋っ子に対する気に入らないことを、お伺いするお説教タイム。美人で底堅く人気のあった部屋中さんの前に座る。心なしか前のめりだ。
「あのね」
「はい」
お仕置きノートとでも言うべき、寮で注意されたことを書くためのノートを膝の上に開き、ペン持って、部屋中さんの言葉を待つ。廊下のあっちにもこっちにも他の部屋の人たちが暗い中で幽霊のようにボソボソと話している。みんなお仕置きタイム中なのである。
部屋長さんは私を愛玩動物のように可愛がってくれた。部屋中さんは関西人で、私のボケの精神を愛してくれた。基本的にはこのお部屋ではあまり個人的に叱られることはなかった。では、何を話していたのか?このお仕置きタイムの時に愛すべき中間管理職である部屋中さんはよく言葉を濁しながら、
「部屋長さんが……」
「はい」
「この前あんなことをしていたじゃない」
「はい」
「あれは、特別だから」
「はあ」
こんな注意をされた。つまりはわかりやすく言うと、うちの部屋長はアグレッシブに校則を破る人だったんだぜい。化粧禁止でも化粧をし、パーマ禁止でもパーマかけるみたいなさ。
田舎から出てきたまっさらな純真な人が、ペットのようにかわいがられている。いつ、ペットにもお化粧してみっかなんてなったら、まっすぐとととと、私が悪い方に花開かないかと、部屋中さん、心配してた。
しかし、私は、愛玩動物としての立ち位置は見事に守りながら、別の方向に走った。
新入社員のタスク1が、話題だしなら、タスク2は何か?
宴会芸である。
チーン……
どんだけ昭和のサラリーマンしてんだよって話だが、嘘みたいなほんとの話だ。どこの世界に宴会芸をする女子高生がいるかって話だが、いたのである。一部屋3人、全部で10部屋、合計30人ほどで一つの寮。
30人ほどの前で一年生は上級生を楽しませるための芸をしなければならなかった。歌を歌っても、手品をしても、踊ってもいい。
そして、ここで、部屋では人気のペットは、寮での人気者に化けた。なぜか?
お笑いをしたからだ。
自分でネタを書き、相方に声をかけ、自分がボケ、相方がツッコミで、第一消灯後に、同寮の他の寮生にネタバレしないようにヒソヒソと階段の踊り場で真剣に練習した。
ネタは授業中にも書いた。書きながらいつも頭の中では舞台に立ってる相方と自分の画像があった。セリフを頭の中で響かせながら、テンポ、間を測る。お笑いはリズムとテンポと表情が命。
無我夢中だった。なんでそんなに夢中だったのかなんて、理由はない。子供の頃に何も考えず時代劇をなぞった時と変わらない。ただ、形にしてみたかっただけ。
自分の頭の中から出たものが、生きとし生けるものを笑わせられるのか?それだけ。
ほんとゆうと、ネタだけ書いて舞台には立ちたくなかった。しかし、なかなか私のおめがねに適う演者がいないのである。だから自分が立ち、また、相方のテンポも含め、全体の演出をした。
ここで、美人の部屋長さんの愛玩動物にすぎなかった私は、ソフトボール部キャプテンの男前(女)な寮長さんのハートも、勉強のできる副寮長さんのハートも、生きとし生ける女子寮生のハートを鷲掴みにし、他寮生にまでその名声を轟渡したのである。
しかし、一年で引退した。なぜか?
芸出しは一年生に課されるタスクであり、上級生はんなもんしないでいいからだ。短い芸出し人生でした。やれやれ。
そして、自分も中間管理職である2年生になり、田舎っぽさが少し抜けてきた頃、真っ赤なほっぺの1年生がやる芸だしを「ヒュー、ヒュー」と偉そうにみる立場になった。
すると、
あ、そこは、え、そこもうちょっと。あうっ!
ぶっちゃけ、血が騒いだ。どのぐらい静観してただろう?中間管理職として、後輩に委ねられないことはダメなことだが、私は、まだ、燃えたりなかった。そこで、1年生の頃よりももっと隠密にネタを仕込んだ。仕込んで、隠密にボソボソと相方と練習をした。あの頃は、華やかな女子高生でありながら、生きとし生けるものを笑わせたいと言う情熱に身を投じようという女子が私以外にもいたのである。
そして、とある日、芸だしで最後の最後まで大人しくみていた我々はお開きになりそうなところですくりとたつ!
「え、うそ?」
まさかの2年生、ゲリラ参加!(ちなみに本来芸出しは、罰ゲームと言ってもいいほどの苦行で、喜んでやっている人なんていなかったし、まして、2年になってまでやるなど前代未聞だった)
私の一年生の頃の偉業を耳にしている人は喜び(一年ごとに寮はかわる。同寮にならなければ私の芸出しは見られなかったのだ)、新入生はポカンとした。そんなポカンとしている一年生に向かって胸の中で叫んだ。
おめえら、本気の芸出しがどんなものか、見せてやるぜ!
ぎゃーはっはっはっは
やった!やったよ!ウケたよっ!ご先祖様っ!(ちなみに我が家のご先祖様にお笑い芸人はいないと思う)
寮は、ある時間を超えると上下階の他寮を行き来するのは禁止。しかし、あの夜は上の階の他寮も下の階の他寮も、大笑いしている我が階に来たかったろう。
ところで、女子寮では伝説のお笑い芸人だった私だが、それは女子寮限定だった。なぜか?
女子で本気でお笑いされている方には敬意を払いつつ、すんません、別にぼちぼちでもいいから、女子としても、も、も、モテたかったんです!
チーン
大モテとかは狙っておらず、ただ、ささやかにチョピットでいいから、自分も普通になんかはあったよねって高校生活を送りたかった!わしゃ学校ではそこそこ成績のいい真面目な人で通ってたねん。それが、突然、男子の前で実はお笑いとかやる人なんだってバレたら、ちょっとそのギャップはねえだろ、と思い、学祭で自分のその才能をひけらかすようなことは、まっっっっったくなかった。
しかし、本性は隠しても漏れ出るもので、自分は高校の時は、帰宅部と美術部と軽音を兼部していたのですが、美術部で工事中のアルミに自由に絵を描いていいというイベントがあり、むっちゃ張り切って、等身大の床屋を描いた。昭和な床屋の中に、なぜか昭和な床屋にマッチしているようなしていないようなアフロでグラサンかけてピッタピタの派手なパンツを履いたおっさんが髪切りバサミ片手にポーズ決めている絵を描いた。
「誰描いたの?これ」
一年生も二年生も三年生も食堂へゆくときに毎日通う道の傍に描かれた絵でした。ちょっとした話題になり、この絵を気に入った同学年の子達はアフロおじの横で写真を撮り、この写真は卒業アルバムの中の一枚になった。
ちなみに男子にとっては私は謎の人だったらしい。真面目な優等生で、最後はコツコツ勉強してまあまあの大学に行った人なんだけど、実はシュールな裏の顔を持っているらしい。本当すか?って話だったらしい。
そんなお笑いに燃えた高校生活も終わり、大学ではお笑いなんて足を洗った。例によって例の如く、モテたいからである。ちなみに、俺(私)、演技力あるんじゃねって思って大学で演劇サークルに入りかけたのだが、色々悩んでやめてしまった。今思うともったいなかった。きっと自分は個性派の俳優にはなれたのに。
大学を出て働き、中国へ来た。自分はもうあんなに激しく、生きとし生けるものを笑わせたいなんて思わずに歳をとってゆくのだろうな。さらば青春。胸がちくりとしないでもないが、やっぱり人間は笑いを取らずにモテないとなと思ってた。
ところがである。
ぎゃーはっっはっは
いつぞやの場面、アゲイン。
何かきっかけがあると出てしまう、この悪い癖。
で始めたら止まらない。私はハッと気づくとまた、生きとし生けるものの前で、リズムと間とテンポを十二分に気をつけながら、皆から笑いをとっていた。しかも、とうとう男の前ではやらないというマイルールを破ってしまったのである。
一体どうして?どこで?と言われると、それは、
……授業中である。
チーン
中国に来たばかりの頃は昼はとある日系中小企業向けの工業団地のカスタマーサービスで総務として働き、夜に入居企業の中国人従業員向け日本語教室で日本語を教えていた。働いて勉強する子達は、皆、疲れているから眠い。油断してると授業中に学生が寝ちゃうのである。
寝そうになっている人間をどうすれば起こせるか?
ここで昔取った杵柄、手段としてのお笑いを思いつく。
てめえら、寝るな!笑えええええ!そして、ついでに日本語を覚えろおおお。
その時、教師は私の他にもいた。隣のクラスでも日本語を教わっている子がいる。もう一人の教師は可愛い子で人気があった。モテるのである。それに対抗している私は、おもろかった。おもろいので人気があった。
なんか女として負けてる気がするうううううう!ウエーん!
ま、しかし、古い話だ、忘れてしまえ!
ちなみに、私のお笑いはここにいたり進化した。なぜか?
相手が日本語がよくわからない外国人だったからである。言葉の力に頼れないだけにジェスチャーと表情とポイントの言葉だけで、勢いで笑わせる。
めっちゃ、頭使った!
最初に工業団地で夜間教室を率い、次は全日制の日本語専門学校で教えていた。結婚を機に学校を辞めた、のでは実はなく、赤字経営なのでオーナーが学校を潰した。そして、無職でしばし出産と育児に勤しんだ。
やれやれ、もうお笑いをやることもないな、と思っていた。今度こそ足を洗った。
ところが、それでもまだお笑いは続く。なぜか?
私の観客は超スペシャルVIPな人でした。誰か?
息子。
チーン……
観客は一人、しかし、その観客のためにこれでもかというほどにキリキリまいにアホなことを繰り返してきた。コスパも何もあったものじゃないが、別に一銭にもならなくとも、
キャハハハハハ
子供が笑うとじんわり感動するねん。めっちゃ可愛いねん。嬉しいねん。わしゃ、子供好きやねん。
そして、観客を一人に絞ってお笑いをしていた自分に転機が訪れる。それは何か?
創作活動です。つまり小説。
投稿を始めたのは2019年末。書き始めたばかりの頃は、小説は小説です。お笑いを書くつもりはなかった。
「れ?」
ところが、とある時に筆が滑って小説中のキャラが小説の中でボケとツッコミをし出した。
「なにぃ??」
そんな予定ではなかった。別にお笑いを書くために私は小説書き始めたんじゃないぞ!しかし、自分のそんな意識に反して、お笑いの場面が次から次へと浮かんでくる。
どんどこ、どんどこ、どんどこなー
なんでやねーん!!!(ちなみに我が両親は関西人だが、わたしゃ東北人である)
なんで、足を洗っても、洗っても、気づくといつの間にかお笑いに携わっているねーん!!!
しかし、さまざまな変遷を得てお笑いの技を習得してきた自分。小説の中にお笑い要素が出るのには、便利なところが一つある。それは何か?
やっとこさ、自分が演者として舞台に立たなくて良くなった。キャラが代わりに演じてくれるからである。
「さてさて、どうしたもんかねぇ」
そして、小説の中のところどころにお笑い要素を置くようになった自分。作品に出てくるキャラの設定をするときに欠かせない要素が一つある。
それは何か?
SM設定と、ボケツッコミ設定。そして、小説内での相方設定。誰と誰をボケとツッコミで繋げるか。かなり真剣に悩んでる!ちなみに私の小説はSな女子がMな男子をいじめている傾向が強く、女子がツッコミで男子がボケな傾向が強い。もちろん例外はあり、筋金入りの食いしん坊である暎万ちゃんに関しては、暎万がボケで、彼氏改夫のヒロくんがツッコミである。
それにしてもである。一体どうして足を洗っても、洗っても、お笑いに戻ってきてしまうのかわからない。ルーツはどこだ?どこなんだ?
多分、父です。ハイパーに意味不明なんだけど、無害な人で、子供大好きで、小さな頃から我々に向かってアホなことばっかりやってきたのは父以外の何者でもない。話せない頃から始まったお笑い。自分も話せるようになったら、父と二人で何か面白いことをやっては、親戚に「お笑い芸人に親子でなれば?」と言われていた。
お笑い芸人なれば?
なりません!!
2024.06.06
お笑い芸人著
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