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現代の数学と物理を研究者でもない自分が学び続ける意義

 11年前、43歳の時。おもむろに物理と数学の勉強を再開した。大学生のときに書いた自分の卒業論文(並列計算機によるクォーク閉じ込めのシミュレーション)が理解できず、ショックを受けたから。
 現在、仕事は美術展示などのプロデューサーをしていて、理科系の世界と縁遠くなっている。自分の手になるものなのに、その論文の理解が壊滅的だったのは驚きだった。
 そして、8年1ヶ月をかけて、ついに物理学の重要仮説である「超弦理論」までを専門書レベルで学習し終えることができた。その間、ひもとき、読み通した専門書は241冊。平均して13日間で1冊。1日で学び終えた本もあったし、1ヶ月かかったものもあった。
 もちろんこの段階で卒論の理解は完璧になった。自分で書いた文章を8年掛けて理解を積み上げて、再読するなんて、かなり「変態」の域だ。

 現実の仕事や生活には直接的には関わらない行為だが、計り知れない意義があった。途中いくつかの重要な到達点があったが、疑問が疑問を呼び、最終的には次なる未知が必ず出てくる奥深さに魅了された。積み上げねば到達できない世界を垣間見ることが出来るのは、他では代えがたい経験だ。
 誰かと比べる必要はない、全くの自己充足。
 また、理解できたからといって、妻や娘たちをはじめ、友人や同僚も全く話し相手にはなってくれない。だから話のネタでは全くない。
 加えて、経済的には一円の足しにもならない清々しさもある。

 ただし、数学や物理を単なる「趣味」と言うにはあまりに苦行すぎる。たった1行が理解できず、何日も呻吟している。
 しかし、一歩一歩進んでいく感覚はかけがえがない。次の一歩を進むために、ときには無限に後退して地歩を固める必要があるからこそ、その一歩はあまりに尊いからだ。

 いまここに焦点をあてる「マインドフルネス」の重要性が様々なところで説かれるが、数学に向き合うとき、「祈り」にも似た集中の世界があることを私は知っている。

 何歳から始めても、継続した先にある世界は素晴らしい。
 現代でも「十年一剣を磨く」意義は十分にある。

 今日も僕は数学と物理の本に向き合う。

※追記
わたしが学習する上で大変にお世話になったのが、とねさんのブログの以下の記事である。

 わたしが読んだ本の一覧と所感は、以下のURLから参照できる。


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