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「悪魔の証明」にいどむ。それは命がけ。

 一般論ですが、経験者として綴ります。

 自分が「無罪」(白)なのに、状況証拠から「有罪」(黒)と推定され、査問、尋問を受けた経験があります。
 知らないところで、証拠らしきものは固められていました。「こいつならばやりかねない」という偏った立場からでした。
 私が黒であることはすでに結論されていて、上層部にもあがってました。

 そこで、突然、「お前は黒だ」と迫られるわけです。

 二重、三重、四重の言い方で「罪を認めて、あとから時間をかければ、分かる人には潔白は証明される」ようなことをささやく人も現れます。「いったんスルーしとけ」も同じく現れます。
 まさに後から振り返ると、この物わかりの良さそうな人こそ、絶対に信じてはいけません。

 私は眠れない日々を過ごし、いったん、受け入れようと思いました。精神的に疲れ果てたからです。
 しかし、それは社会的にハレンチな行動であり、妻や娘たち、職場の部下の信頼を失うことが本当に心外だったので、私は踏みとどまりました。知恵を振り絞り、「悪魔の証明」に立ち向かいました。
 「悪魔の証明」とは、自分が無罪であることを証明することです。刑事事件は、えん罪が絶えなかった苦い歴史的経験を踏まえ、「無罪推定の原則」がありますが、民事裁判、また、一般に人から疑いをかけられたときは、この悪魔の証明に立ち向かわなければなりません。

 それは、弁護士を雇えるような立場にある人は別として、一人で闘わなければなりません。
 「そうじゃないんだ」。たった、これだけのことを証明、疎明するのに、大きな苦しみを、たった一人で背負う。この重みは当事者になったことのない人にしか想像ができないと思います。
 「違います」「自分はそういう人間ではありません」「信じてください」などの事実を積み上げない弁明は、悪魔の証明になんの貢献もしてくれません。
 疑うのは簡単です。いくつかの状況証拠だけで事足りるわけですから。多くの人も、その状況証拠だけでなびいていきます。世論とはかくも簡単につくられるのかと痛感しました。一番の味方だと思っていた人まで、一瞬で「敵」になります。恐怖で、孤独です。

 私はこれまでの人生の集大成としての知識とスキルを総動員して、本当に「首の皮一枚」の状態から逆転して、「悪魔の証明」を完成、披露し、自らの「白」(=無罪)を確定させました。
 その後、事件は長期化し、最終的には思ってもみない展開、結末を迎えます。

 もちろん、疑われた人が黒であることもあるでしょう。しかし、黒でないのに疑われる人がいる場合があることを、「事件」が起きたときには、いったんは思い出してください。
 白の人を黒にしてしまうのはあまりに悲劇的です。その人が命を絶ってしまうこともある。それほどのことです。疑われるということは。本当の命は免れても「社会的な存在」としては抹殺される場合もある。そのことを忘れないでください。


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