櫻編 2話
静江はとても優秀な侍女である。
「藤吉夏鈴に会ってみたい」
春樹からの突然のお願いであった。
聞いたこともない名前。春樹本人もよく知らないそうだ。
どうして見ず知らずの人に会いたいのか?
という疑問はさて置いて、二つ返事でそれを承諾した。
普段、春樹の世話から藤崎家の管理まですべてを一人でこなす静江は、今回の要望にも迅速に対応してみせる。
それは三日後の土曜日に行われる、イベントのチケットを手に入れるまで一日とかからないほどであった。
”櫻坂のメンバーに会える”
会場ひとつを丸々貸切るそのイベントはグループの大きさ・規模を表すほど、とても広い会場で行われている。
『櫻坂46』
女性アイドルグループのひとつ。
藤吉夏鈴はそこに在籍するメンバーの一人である。
夢の中で殺された人物が藤吉夏鈴であると調べた春樹は、そのイベント会場に足を運んでいた。
なぜだか、どうしてもその夢の女性に会ってみたかったのだ。
(……長い)
かれこれ数十分は列に並んでいる。
春樹は待つことは好きではない。
むしろ嫌いなほうだ。――そもそも待つことを好む人は少数だろう――
どうやら長時間並んでも対面できるのは実際のところ十数秒らしい。
ようやくゴールが見えてきた。春樹の番まではあと少し。
そこからさらに十数分待ち、さすがにげんなりしだした頃にようやくその時が訪れた。
「こんにちは」
「……ああ」
「……」
「……」
アクリル板越しに対面する。
「あ、あの……えっと、っ」
せっかくきてくれたファンの為なのだろう、どうにか会話を試みようとする夏鈴。
対して春樹はというと、真剣な眼差しで、夏鈴の顔をただただ見ている。
そうして、しらばくお互い無言のまま時が過ぎるのであった。
藤吉夏鈴との対面が終了しその場を後にする春樹。
似ているという思いが、間違いなく本人だという確信に変わる。
一度しか見ていない夢だったが未だに鮮明に覚えていた。
綺麗な黒髪に少し細めな目、透き通るような肌。
まだあどけなさが残る顔がとても印象に残っている。
実物は思ったよりも華奢だった。
青いワンピースがとても似合っていて、そのスタイルのよさが伺えるほどだ。
(……ん?)
出口へと向かう途中、何かが引っ掛り唐突に足を止める。
数秒後。
ハッと顔を上げ、
「……おいおい、まじか」
振り返り思わず声が漏れる。
(青いワンピース……来てる服が、あの夢と同じだ! )
そう思ったと同時、走り出す――
「すまん通してくれ!」
嫌な予感がした。
列に並ぶ人らを押しのけ来た道を戻る。
藤吉夏鈴のいる場所まで二十メートルもなかったが強引に通ろうしたせいか、なかなかその距離は縮まらず……
――そして、事態は急速に動き出す。
会場の出入り口の反対側にスタッフ用の小さな出入り口がある。
飾りつけ用の風船の束をいくつか持って一人の男がその扉から出てきた。
「……え?」
最初に気が付いたのは最前列のファンだ。
驚きの声を上げたのは当然である。
風船を持つ男の空いた右手には銀色のナイフが握られているのだから……
やがて、その戸惑いに周囲の人らも反応しだした。
「なになに?」
「え? うそ? ナイフ? ええ?」
「……ドッキリ??」
ザワつきは次第に大きくなっていく。
男は自分への注目など気にする様子もなく藤吉夏鈴へと近づいていく。
皆の視線に何事かと後ろを振り返える夏鈴。
そのわずか一メートル背後に迫る男。
「ぇ……ちょっと、どなたですか?」
スタッフの装いをしているが、知っているはずがない。
初対面なのだから。
夏鈴の問いかけを無視し、男はナイフを持った右手を振り上げた。
「……っっ!!」
一瞬で凍り付いたように表情が強張る夏鈴。
逃げようとしているようだが咄嗟のことで思うように体が動かないようだ。
――キャァアアアアア!!!
と、聞こえてきた悲鳴に男は笑う。
そうしてナイフを握った腕を振り下ろした――
「キャァアアアアーーーーー!!!」
あがる悲鳴。
と同時、
「うぉおおおおおおおお」
唸るような怒声とともに一人の男性がアクリル板を飛び越えた。
春樹だ。
驚くべきはその身体能力。
机を足場に板を飛び越えるだけにとどまらず、
「オラァアッ!!」
空中で身を翻しナイフをもつ男に廻し蹴りをしてのけた。
「なっ!?」
突然の奇襲にあっけにとられた男は渾身の蹴りをもろに受け転がるように吹き飛ぶと、だらんとその身を投げ出した。
起き上がる様子はない。
男は気絶していていた。
途端、爆発するようにワッ、と大きな歓声が沸いた。
「すげええええ!!」
「オオオ! やべえ!! かっけええ」
「よかったぁあ」
「警察だ、警察呼べっ!」
歓喜に沸く周囲をよそに春樹は夏鈴に向き直る。
「怪我は無いか?」
少し呆けていたような夏鈴だったが、その問いかけに我に返る。
「……ぁ、はい。おかげさまで」
「そうか、よかった」
(間に合ったようだな)
安心する春樹。終わったと油断していた。
背後から誰かが、
「……邪魔しないで」
そう呟いた。
突如、背中に激痛が走る。
「――ッ!! ッがァー!?」
ナイフで一刺し。ズブリ、と根本まで深く刺さっていた。
(クソがっ!!)
痛みを感じたと同時、反射的に裏拳で反撃したのだ。
それがまずかった。
相手は小柄な女性だったのだ。
彼女は顔面に拳を受け、ナイフを握ったまま吹き飛ぶように倒れた。
抜けた穴からまるで噴水のように大量の血を吹き出す春樹。
立っていることも儘ならなくなり、明滅しかけた意識の中、夏鈴に抱きつくように倒れた。
支えるように体勢を崩す夏鈴。
その顔は恐怖と驚きで歪み、
「……ひっ……イ……イヤァアアアあああああ」
声にならない悲鳴を上げるのだった。
――キャァアア!!
再びあがる悲鳴、騒然としだす場内。
「か、夏鈴ちゃん、とりあえず裏に……」
スタッフの女性は慌てながらも、夏鈴の腕を掴み引き上げた。
――が、とてつもない力で固定されているかのようにビクともしない。
「……嘘? なにこの力、お、重っ、か、夏鈴?」
座ったままの夏鈴は小さく口を動かしていた。
「え? 何? なんて?」
思わず耳を寄せるスタッフ。
とても小さい声だったが、
夏鈴は確かにそう言っていたのだ。
「……スタートオーバー」
と。
――その瞬間、
世界が止まった。
時計の針がものすごい勢いで逆回転を始め、まるでビデオを巻き戻したかのように、世界は逆に動き出した。
《Start over》
それは、時を戻す力。
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