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アーティゾン美術館のダムタイプの展示 感想

アーティゾン美術館は東京駅の近くにある、ブリジストンの創業者石橋正二郎のコレクションを集めた美術館です。
そこで「第59回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館展示帰国展 ダムタイプ|2022: remap」という展示が行われていました。
ダムタイプとは様々な分野のアーティストが集まりマルチメディア・アートを展開しているグループのようで、今回の展示には先日訃報が流れた坂本龍一さんの音楽も使用されています。

2022のヴェネチアから帰国したダムタイプの展示を再現したものとのこと。


美術館の6階のフロア全てで一つの作品になっていました。
なので普通に歩くとすぐに終わります。色々な作品があると思っていたので、最初はこれだけなん?となりました。ですがフロアの中を歩き回って色々考えたりできて面白かったです。


雰囲気は全体が暗く、水の中にいるような環境音に包まれています。風や鳥のさえずりのような自然音も聞こえます。
フロアはダイヤのエースのように壁に仕切られて、エースの内側の壁に投影された赤いレーザーの沢山の点が横に流れて、その点が時々文字を作っては消えていきます。
ダムタイプは人とテクノロジーの関係をテーマにしてきたと説明されていたので、赤いレーザーはデジタル信号の流れかなとまずは思います。
赤い文字は、連なった丸く小さな光に照らされ浮かび上がります。その白い光の連なりは所々途切れており、これはおそらくデータの0と1の表現ではないかと思いました。

エースの外側にはガラスのレコードが点在し世界各地で録った環境音が納めらていました。
またそれらとは別の個室に、動画の最初にある無数の単語が写る部屋がありました。その単語は解析されデータとなり送り込まれていきます。これは端末なのでしょうか。
外側を世界の国々に囲まれ、端末から送り込まれたデータが中心で行き交っている。

どうやらこの展示全体がインターネットを表現しているようです。
壁に囲まれた中央の部屋はその深部で、中に入ると流れる信号を直に見ることができ"インターネットの舞台裏"に入ったような感覚になります。
煌々と光るモニターに派手なビジュアルや情報が目まぐるしく写る、私達が普段思っているインターネット像とは真逆の静かな世界です。


部屋の中心の床がガラス張りになっていて、地図のようなものが投影されていました。実際の地名が書かれているので地図なのは確かですが、普通の地図ではないようで、陸の形がつかめない。図はたくさんの細かな数字と数字を囲む円によって埋められている。
地図…数字……しばらく眺め、数字はどうやら高さを表している。でも陸が見当たらないから山の高さではない、ならば海の深さを表しているんだという事に気付きました。
ガラス面に写った海図はゆっくりと動き、それに伴いポーン…ポーンというソナーの音が反響している。
ここはどうやら海の底らしい。私は潜水艦に乗っているかあるいは海底ケーブルの中を移動しながらそこに流れる電気信号を眺めていたというわけか。


再び海の底を見渡してみる。周囲の壁を這うレーザーの光を目で追う。この空間を包んでいる情報は全てが曖昧だ。文字になった赤い点はすぐに霧散してしまう。
文字は時々文章にもなり、その文を読む子供のような声が聞こえるが、それが誰なのか誰への言葉なのかも分からない。
自然音やレコードの環境音の出どころもはっきりしません。

ここで、私達が普段触れている情報がいかに断片的なものなのかと気づかされます。単語は文章から切り離されネット空間を飛び交う。その単語が集まり文章にもなるがその文章は収まっていた場所から離れ、誰から誰にという文脈を失ったまま漂い、作品の中を彷徨っていた私達と出会う。

こういった情報の断片で作られたのが人間であるならば、漂っている単語や文章は私達の一部であり私達の姿そのものなのだと言えるだろう。世界という膨大の情報の前では、単語と文章とそれが寄せ集まった私たちの意識には誤差程度の違いしかなく、素材が断片ならそれがちょっとだけ集まってできた人間もまた意味を失った断片にすぎない。


この作品を鑑賞した人は、作品の中を人が歩き回っている、当たり前のことですが作品という物と鑑賞する人を別のものとして認識していたと思います。
ですが、壁に転写された赤い信号の光と人間には上に書いたように質的な違いはない。歩き回っていた私達もまた空間を漂っていた光や音と共に作品のオブジェクトの一つになっていたのです。
キャプションボードの空白を埋めるための"鑑賞者も含めて~"といった間に合わせの説明ではなく、優れたインスタレーションは鑑賞者を本当の意味で作品の一部としてしまう。その作品に包み込まれる感覚が醍醐味だと私は思っています。


人類の心象風景はここ100年、インターネットが登場した約2.30年前からすらも大きく変わってしまったのだと思う。
様々な情報が集まって人間の意識が作られることはどの時代においても変わりはないのだが、たぶん昔の人々の記憶はもっと大きなまとまりになっていたのではないかと思う。記憶は確かなものとして存在している故郷やそこに住まう人々とのふれあいによって担保されていた。

その風景は、ちょうどこの美術館で同時開催されていた展示の印象派の絵画ように瑞々しく彩り豊かなものだっただろう。


だが情報はいつしかその場所と分離してメディアによって流通し、断片化してしまった。
インターネットが登場し、処理能力の向上と回線の大容量高速化によってその流れは増々加速している。
私達が普段目にしている情報の大半は地球上のどこか不確かな場所から集められた断片の寄せ集めであり、その断片はケーブルの中を流れる0と1というデータの断片に更に細分化される。
この作品はテクノロジーによってデジタル化した現代人の心象風景だ。
海から上がって普段の生活空間に戻っても私達はケーブルに囲まれて暮らしている。そして作品の中で体験したのと同じように断片的な情報を取り入れながら彷徨い続けるのである。



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