一滴 名も無き私に

個人的に「表現から政治的、世相的思想が透けて見える事が苦手」である。

いや、それを伝える為にあるのが表現でしょう?と言うのは自分でも分かっている。
寧ろそれが正解で御尤もである。
だけど苦手なのだ。
絵も歌もそうであって良いはずなのに。

なので推しの歌からそう言った思想が見えてくるのが大変に苦手である。
急に話のレベルが下がったな、と思ったかもしれないが、これはそう言った話なのでここで理解して欲しい。ダメなら踵を返してくれ。

でもってそれが直接的な表現になるともっとダメになる。
要するに表現、特に歌詞に「反戦」とか「命を大事に」みたいなのが直接的に出てくると萎える。すっごく萎える。
大事なのは分かってる、だから個人的な問題、だけどめっちゃ萎える。
理由の一つに「直接的に歌うならそら伝わるわ」と言うものがある。
言葉が直接的なら分かりやすいに決まってるのだ。
頭の悪い私でもダイレクトな言葉からならちゃんと汲み取れる。
だから苦手なのだ。そんな分かりやすく思想を伝えられるのが。

自分の推し、すなわち好きなアーティストには割と「それ」をやる人は多い。近年多くなってる人も多い。
推しなので贔屓目たっぷりである。ダブスタで「この人たちが歌うものなら」と許容してしまう部分もある。
それでもやっぱり苦手意識はぬぐえない。
自分が好きであるが故に「簡単な表現で完結させないでくれ」と言う我儘な気持ちもある。
私は持たざるもので、なんなら人より数倍劣っていて、表現者ではない。そっち側ではない。いつも低い所から高い空を見上げてる側の人間だ。
だから自分が憧れた持っている人、自分と違う別の世界に立っている貴方達はそんな簡単な方にいかないでくれ、と思ってしまう。
大体簡単じゃないんだが。作品として完成されている時点で使われた素材がシンプルでも簡単な訳がない。なのにまあ我儘なもんである。偶像崇拝に似ている。理想の押し付けである。

だけど、それはそれとして苦手は苦手なのだ。
だからそう言う作品が出てくるとファンの自分はちょっと困ってしまう。
だけど推しは流石推しで(この時点でもう凄い贔屓目である)、作品としては素晴らしいのだ。
だから余計に打ちのめされる。表現している事が伝わって来るだけに自分にしっかり響いて、そしてそれが「自分の想像の余地がない、答えのはっきりとした思想」だから。
答えがはっきりと用意されている、そう感じてしまうのだ。

結果トラウマソングの爆誕である。
例えば反戦、例えば虐待、例えば性的差別、それに対しての痛みがダイレクトに自分の想像の逃げ場なくえぐってくる。

前述で分かるように自己肯定感ゼロでダウナーで路傍の石の裏に隠れたいダンゴムシ気質だ、だから推しはキラキラしていて自分に絶対得られない光を持っている人だと思ってる。実際そんな人ばかりである(欲目100%)
だから、えぐられて打ちのめされて、ダメージを負う。
そして「そんな風にダメージを負う自分の偏屈さ」にまたダメージを蓄積させるのである。
推しを全肯定しろとは言わないと思うが、これは神が作ったものに疑問を持つ叛徒の思想である(言葉が強い)
推しのパーソナルまで全肯定出来ない性質の人間だが、推しの作品はなるだけ好意的に肯定して受け入れたい。推しだもの。作品で好きになったんだもの。
それが出来ない自分にも打ちのめされるのである。
また周りは絶賛するから余計に後ろめたさも強くなる。
推しにも自分の意見曲げないアテクシ、そんな暗黒微笑的なもんはもう20年位前に捨ててないとダメなのよ推しを自分のアイデンティティ表現に利用する程愚かでもまして軽い存在でもない長いので25年推しておるんや(息継ぎ放棄)
まあ長く推してる自分格好いいとかファンである自分自身が好き、みたいになってくるとお仕舞なんだけどな(話が違う)

前提がエライ長くなったが。
自分の推しにBUCK-TICK平沢進がいる。
オイ後者は思想の塊やんけ!!と言うのはまた別の説明になるので省く。
ほら、割と難解な表現の人なのでそこはまたそれで(逃)
BUCK-TICKのバンドとしての説明も省く、多分知らん人はこんなNote見ない(確信)
知らない人は群馬が生んだメンバー5人が5人一組である事で最強になるバンド、くらいの認識でいてください(説明の癖が強い)
私は櫻井敦司、愛称のあっちゃんと呼称させて頂くが、あっちゃんのこのダイレクト的な歌詞の歌が非常に苦手でトラウマになる事が多い。
また彼は35年の活動を経て円熟と成熟を迎え、最近の表現力は素晴らしいものがある。
なので伝わって来るものも大きいから、辛くなる。

多分乗せられているのは「思想」と言うより「願い」である。
人が年を経て親となり、世情を憂いて良くないよ、やめようよ、ダメだよと伝えたくなるのは当然なのである。
増してアーティストだったら当然だ。広く願いを届けられる術を持ち合わせているのだから。
それで良いのだ、何も悪くない。そしてちゃんと伝わって来る。
だから、辛い。逃げ場がない、答えが決まっている、皆一様に多分同じ答えに辿り着く、その歌が辛い。

考えて見りゃ製作者が辿り着いて欲しい答えに行きつく事は何も悪くない。
ここで最早自分の苦手は破綻している。つまりは自分が苦手ってだけなのである。

昨今推し活と言われてるものは「辛くなったら推し活でない」のである。
つまり自分に合わなくなったらそこで区切りをつけてやめるのが最適解なのだ。

だがそんな時期はこっちはとっくに通り過ぎてるんだよ(逆ギレ)

そんな辛い歌があるならもうファン止めればいいじゃんと思うだろう違う違うそうじゃない他は素晴らしいしなんならそのトラウマソングだって素晴らしいんだ自分が苦手ってだけでだけで素晴らしくないってのは違うのだ(早口)

惰性で続くファンこそ害悪そのものであろう。自分も前述の通りファンになって25年目になる。それでこの状態になってしまうと最早老害である。
ただ伝えたいが自分は別にその歌自体も嫌いではない。
単純に彼らが大好きで、苦手なものはあれど、まだ聴いていたいのだ。
ぶっちゃけもうメンバー皆50代後半、一人は還暦、しかも一番体力勝負のドラマーである。
あと何年続くか分からんのだ。
だから、自分は最後までファンであろうと決めている、彼らが彼ららしい作品を造り続ける限り。

ここで自分が思う「彼ららしさ」が今の状態で乖離しているのでは、と思う人もいるかも知れない。
所謂公式との解釈不一致って奴である(言い方ァ)
だけど、今の所そうではない、とは自分では思っている。
ファンの欲目、贔屓目、最大限の偏りも含めて自分が彼らの振り幅についていけてないだけ、と思っている。まあホント盲目的思考ではあるとは思うが。
彼らに自分の苦手な歌を作って欲しくない、ではない。そんな事は微塵も思わない。
受け入れられない自分が嫌なのだ。

2023年4月、BUCK-TICKの最新アルバム「異空-IZORA-」が発売された。
実に23枚目のアルバムである。35年ってすげぇな(唐突な感嘆)

今回のアルバム、まあ見てる人はBUCK-TICK知ってる人ばっかだと思うので諸々省くが、自分としてはOne Life One Death(11枚目のアルバム)の系譜だと思っている。
ダークでヘヴィなサウンドと世界観のOne~One~はメロディアスなものも多く、個人的にBUCK-TICKの持ち味の一角をかなり象徴的に表現していると思っていて、これぞBUCK-TICKと思えるアルバムの一つである。
個人的にはこのOne~One~が最高峰(SIX/NINEと言う名盤があるので異論は多々あると思うが)だと思っていたんだが後発の十三階は月光やmemento mori等で易々と更新された。35年すげぇな(再)

自分の中でここ最近はアルバムの傾向は2つに分類されていて、One Life One Deathの系譜は或いはアナーキー、アトム未来派No.9、No.0辺りをそこに位置付けている。
総じてヘヴィで全体的にはダークな世界観であり、ある種まとまりがあり一貫性を感じているアルバム達である。
他RAZZLE DAZZLEやABRACADABRAはSIX/NINEやSSLの系譜、バラエティに富み突飛な飛び道具的曲も多く、ある種まとまりには欠けるがとにかく中毒性は高くこれもこのバンドの世界観の一つだと思っているが、まあその辺りは省く。ホント個人的分類だし何よりmemento moriとかCOSMOSは分けるのが難しい。
十三階は月光?あれは唯一無二や(何)

まあそんな訳で自分的に今回の異空は凄く、好みである。
One~One~をこよなく愛した自分には今回の世界観は凄く、合う。
半面、まとまり過ぎている感はやはり感じられる。
これは前出がABRACADABRAと言うある種のごった煮アルバムだったのでしゃーない。
割と癖が低めのアルバムはツアーになると化ける。過去の癖曲が差し込まれる事で凄く化ける事は多い。
実際或いアナ~No.0もそうだった。ツアーで完成した部分は否めない。

そして個人的には大分メッセージ性が強く感じられるアルバムだなとは思っている。
ここでだらだらと記して来た「思想の見える表現」に繋がるのである。まとめろや少しは。
ここ数作に比べるとかなり自棄っぱちと言うか諦念や絶望を歌う曲が多いのも目を引くのと(癖が強いと言えば強い)、割と直接的な歌詞で明確なイメージで伝えてくる歌が多い。
まあその辺りはゲルニカやら胎内回帰やらここ数作でごんごんと直接的表現のトラウマを生成してくれてたので。私のライフはもうゼロよ。
古くはMona Lisa OVERDRIVEのLong Distance Callのように直接的な表現の歌はあったのだ。今更じゃない。そして勿論苦手だ。いい曲だけどホント怖くなる。

血が流れる、兵隊さん、戦争、パパ、ママ、そう言った直接的な歌詞は聴き手側の想像の余地は残ってない。答えは一つに向かっている。
さよならシェルターにしても同じである。こちらは明確に曲の制作経緯が語られてるだけに。
そうなって来ると自分は少し辛いなぁとなってしまうのである。
歌詞は直接的でないのだけど太陽とイカロスに関しても雑誌インタビューにて特攻隊的な示唆がされていると聞き及び(自分はまだ読めていないので未確認だが)おいやめろそれは自分の中でSOFT BALLETのESCAPEに結びついてしまryと予想外の方向性でダメージを負っている。
そう、それを見た時点で自分の中で曲のイメージは固定されてしまったのだ。
それまで色々と思い描いていた自分の想像は霧散して、今ではもう銀色の機影が太陽を目指す姿しか見えなくなってしまったのだ。

ちょっと、辛い。めっちゃ好きな傾向のアルバムなだけに。
その曲たちも全部凄く良いと思うだけに。
ヒズミとかもLGBT的なものを想起させるのは櫻井氏本人もインタビューで語っているので。まあその辺りはABRACADABRAのダンス天国もそうなんですけどね。
そう考えるとメッセージ性がかなり強く感じるのは別に今に始まった事でないのだ。
そうなるとやはり自分の気持ち一つなのかも知れない。あ、話終わった(何)

まあただそうなって来ると自分はもうファンとしてダメなのかなとも思える寂しさがある。
好きなのだ、大好きなのだ、作品もその人たちも。
なんなら自分がドストライクだと思うSCARECROWやワルキューレの騎行、愛のハレムよりも苦手だと感じるカンパネラやヒズミの方が耳に、脳にずっと残って回るのだ。
音楽としてそれは凄い事だと単純に思う。だけど、苦手って感じる事は合ってないのかなと。
別に悪い事じゃない、推し変なんてよくある事だ。ただ自分は今まで与えて貰って来たものが多過ぎた。
今ある人間関係も全てBUCK-TICK関係出来たものなのだ。
一つに傾倒し過ぎた、依存し過ぎた感はある。こうなると失えない、失う事は出来ない。25年は、長すぎたのだ。

これを記してる2023年4月が半年ほど続く絶不調期の多分最高潮期(どっちだ)なのもあり、多分メンタル的な問題もあるだろう。
だからこそ悩んでいる、悩みながら良いアルバムだな…好きだな…トラウマだな…と思いながら聞いている。
情緒不安定にも程がある。

ただ、アルバムの最後の歌である「名も無きわたし」(正確にはインストのQuantum Ⅱが最後ではあるが)を聴いて、少し考えが変わった。救われた、とも言う。

先行シングルの太陽とイカロスのC/Wである「名も無きわたし」はアルバムよりの収録され、また初出がアレンジ版と言う少し異色の存在でもある。
なので、原曲を聴くのが後になると言う順番になる。

アレンジを担当YOW-ROW氏の仕事に自分は凄い信頼を勝手に持っている。
「堕天使」や「獣たちの夜」は氏のアレンジによって一段階化けたと言って良いと思う。
特に堕天使の化け方は凄かったんじゃなかろうか。
だから自分は最初に「名も無きわたし」を聴いた時も良いなと素直に感じた。

だけど、アルバムで「原曲」である「名も無きわたし」を聴いた時、なんかすとん、と自分の中に落ちて来た。
ああ、こっちがやはり「元」なんだな、と。

断じてYOW-ROWさんのアレンジが悪い訳でない。
ただ、こっちがやはり原曲なんだ、と凄く強く感じ、そしてアレンジ版より凄く素直に自分の中に落ちて来たのだ。

そしてその所為か、歌詞をよく見る事が出来た。
自分は正直この手の解像度が無茶苦茶低い。そしてなんなら勘違いしたままそれが正しく更新されないと言うある種のミーム耐性の持ち主である。正しい情報を見ても中々更新出来ない思い込みの強さがあったりもする。

今回見直してみて、聴きながらかみ砕いて、ああ「名も無きわたし」は「名も無き私」なんだなぁと唐突に思った。

名も 無い わたしは
あなたと 出会いました
名も 無い わたしにも
蝶や 風や 夢が…

名も無い、何者でもない私は貴方達と出会いました。
そして、蝶や風や夢のような自分にとって輝くものを、与えて貰ったのです。
25年、貴方達から貰って来たのです。

ありがとう 愛を 陽だまりの日々を

号泣と言うのが大袈裟でない程涙が出た。
涙がぼろぼろぼろ溢れたどころではない、情緒不安定で自律神経しっちゃかめっちゃかなのも相俟って、泣いた。

詳細は省くが、BUCK-TICKを知った当初自分にとって音楽は聴くものであって別段歌っている側に興味はなかった。
作品が好きなのであって、歌ってる彼らには興味がなかった。
それが自分には当たり前の感覚だったからアーティストのライブに行くなんて考えもしなかった。
そして2000年頃、自分はそれまでの人生で一番打ちのめされ、全てを失い、孤独になり、毎日死にたいと思っていた。
そんな時、一度ライブを見てみませんか、とBUCK-TICKを通じて知り合った当時の友人が誘ってくれたのが、2001年のTHE DAY IN QUESTIONだった。

そして自分に、名も無い私に、赤や黄の夢が与えられた。

あれからずっと、色んな夢を見せて貰って来た。
名も無きわたしは名も無き私だった。
何者でもない、卑小でどうしようもない存在の私は、ただただ見せられる夢に勝手に救われてきたのだ。
まさに今回のように。勝手に名も無きわたしに救いを見出したように。

だからこれからも勝手に悩みながら好きでいよう。
救う気なんて何一つなかった彼らの歌が、苦手であっても嫌い、にならない限り。苦手だけど好きな歌もある、それで良いじゃないか。
こうして誰に頼まれてもいないのに勝手にうだうだ思い、悩み、つらつらと連ねる事もあろうとも。その上で勝手に救われて勝手に答えを出して。
誰も知らない隅っこで、だけど好きなんだよなぁと笑う事はきっと赦される事だろう。
だって私は、名も無き私はあの日、初めて殻から外を見た雛鳥の如く勝手に救われ勝手に夢を貰い、25年間勝手にあのパレードについて行って、もうここまで来てしまったのだから。

名も無い わたしに
あなたと お別れ 来た

いつか、多分遠くない未来に、お別れが来るその時まで。
名も無き私は、一滴貰った愛を後生大事に、それは大事に抱えて。
最後にありったけのありがとうを言えるように。

所でTwitter等で何度か呟いてるがこのデイイン参戦に際してコミケに参加していた私は搬出に時間が掛かった結果、多少売り上げが当時はあった為ビックサイトから武道館までタクシーぶっ飛ばしてもらったり実際ライブを見て右側にいるあの格好いいギターと可愛いベーシストは誰???とエライ事になったりと色々面白い思い出もあるのだが、それはまた別の話。


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