アセクシャル自認の功罪

“アセクシャル“を知る

アセクシャルという言葉すら知らなかった頃の自分は周囲との認識の差に度々苦しめられてきた。
思春期前後の男子の会話の内容など大体想像はつく。
自分は正直全くついていけなかった。
でも目立つことを避けるために周囲に合わせて生きてきた。

無理に周りに合わせて生きてきた。
そんな自分にとって、“アセクシャル“というセクシャリティーの存在を知ったことは救いだった。
自分のような存在もいていいんだ!と非常に喜んだ。
その瞬間は…

“知ること“は救いになりうるか?

アセクシャルを知った自分に訪れたのは新たな苦しみだった。
自分はいわゆる“普通“からは外れているのだと絶望した。世の中の多数の人間が当たり前に生きていくであろう人生は送れない…
そう思うと絶望しかなかった。

私をさらに苦しめたのは、当事者との出会いがあまりにもないことだった。
自分がこれまでいた界隈は少ないとはいえ比較的母数の多いコミュニティ。
出会いがないわけではなかった。

これだ!と思えたアセクシャルというセクシャリティー。
自分は当事者に会いたい話したい。
しかしそれができる環境はない。
この事実がさらに自分を苦しめた。
図らずとも”知ったこと“が自分を苦しめるという結果を招いてしまったのだ。

苦しみの原因

散々”罪”の部分を出してしまったが、”功”の部分がなかったわけではない。

性行為はしなくてはいけないものではない。したくなければしなくても良い。

この事実だけでどれだけ救われたかわからない。
だが私はデメリットを多く感じてしまった。

なぜか?

評価が他人基準だからである。

自分は誰かが決めた結婚して、子供を持って、死んでいくという普遍的な人生を基準にして考えてしまっていたのだ。

これをやめることができたなら自分のこの苦しみは消える気がするのだ。

残念ながら今の私は自分の生き方で生きていく覚悟はできていない。
これが解消できない限りどこかでこの苦しみは継続していく。

自分の生き方で生きる覚悟

自認したことで生まれた喜び。
自分がおかしいわけではないことを知れた。
多くの当事者と仲良くなることができた。

自認したことで生まれた苦しみ。
世の大多数の人とは違うという現実。

このほかにもアセクシャルを自認したことは自分自身に多くの変化を与えたわけだが、一番の変化は自分自身の人生を他人基準で生着なくて良いと知れたこと。

人には人それぞれの幸せがある。
今日すれ違った名前も知らない誰かにだって、もちろん自分にだって。

自分が自然でいられる生き方をすれば良いのだ。
大きな学びである。
次に私が目指すことは、自分の人生を自分の生き方で生きる覚悟を決めることだ。

自分の考え方に変化を与えてくれたと言う点がアセクシャルを自認したことによる一番の変化なのかも知れない。

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