この1年+α、私は私に向き合いながら生きてきた。1年と少し前までの私は私自身に絶望をしていた。どんどん深い暗闇に堕ちていくようなそんな気持ちだった。毎日眠れないし、毎日漠然とした不安に襲われ、怖くて怖くて仕方がなかった。そんな状態の私が恥ずかしく、誰もこんな私なんかと関わってくれないだろうと思っていた。 しかしながら、そんな最悪な状態の私を支えてくれる人がたくさんいた。そんな人たちのおかげで私は人生に「希望」を見出すことができるようになった。 誰かの悪意までも背負って生きよう
暇つぶしに寄ってみた本屋さんでふと手に取った小説『マルナータ 不幸を呼ぶ子』は私を励ましてくれる大切な本の1つとなった。本の帯にあった「私は私、誰のものでもない。」その言葉に惹かれて購入した。 【筆者について】 筆者はベアトリーチェ サルヴィオーニ(Beatrice Salvioni)というイタリア人女性作家。 【あらすじ】 ムッソリーニ政権下のイタリアが舞台。生きてきた背景が異なる二人の少女たちの物語である。この物語の語り手は主人公のひとりであるフランチェスカ。彼女は
明けましておめでとうなんて言えない年始となりました。皆さまはいかがお過ごしでしょうか。夜になるととてつもない不安が襲ってきて辛くなることがあるかと存じます。そんな時の私の対処法を記したいと思います。何か皆さまのお力になれる部分がありましたら幸いです。 不安な夜はまず「食べたいもの」を食べる。それが出来ないときは携帯のメモでもなんでも良いので不安な気持ち、しんどい気持ちを書き散らしてみる。私は不安な気持ちになると孤独感を感じやすいので、ラジオを流したり、YouTubeを流し
これをご覧いただく前に注意です。この文章を読んで不快に思われる方もいらっしゃるかもしれない内容となります。 これまでの人生を振り返ってみて、私の置かれている状況は常に「不正解」だと感じ生きてきた。 そう思ってひとりで苦しんできた。 身近な「家族」は、残念ながら私の理解者となることは無かった。家族というシステムが上手く回るように立ち回ろうと私は毎日毎日必死で段々と疲弊していった。私がいくら辛く、しんどいと訴えても耳を傾けようとする力が彼等にはないし、そもそも「寄り添う」と
私が長年持っていた考え方として「誰かに何かを頼まれたらYesと答えよう」と考えていた。しかし、最近の私は「私が嫌だと感じるお願いに対してはNoと示そう」と考え行動している。 この考えのシフトチェンジはどうして起きたのか、考えていく。まず、最近の私は「自分の気持ちに正直である」ということを第一優先課題としているということが影響していると考えた。今までは自分を犠牲にしてでもなるべく他人の頼み事を叶えたいと思っていた。しかし、その「自己犠牲」が私の心を蝕んでいたことに自分の過去
前回重たい話だったので今回はポジティブな話をしたい。自分を好きでいられる努力の一つに最近新たに加わったものがある。それは、なんでもない日に「着飾って出掛ける」ということだ。 なんでもない日常を過ごすことに精一杯だった以前の私からは想像が出来ない一歩であると感じている。誰かと会うという用事以外で着飾ってみるという試みはなかなかに楽しい。その日の気分に合わせて洋服を決めて、その後洋服に合わせて化粧をする。時間に制限が無いためゆっくり洋服を選んだり、化粧をすることが出来る。その
先日新宿SKシネマにて「子宮に沈める」がやっているということで友人と共に観に行ってきました。とても色々と考えさせられる内容だったので自分の考えを整理するという意味で記したいと思います。 ちなみに、この作品はネットフリックス等の媒体を通して観ることが出来ますのでご興味のある方は是非探してみて下さい〜 [映画の特徴] 児童虐待の中でもネグレクトについて描いています。ネグレクトした母親も登場するのですが、ネグレクトされる側である子どもの視点を中心として描かれているのが大きな
筋トレとストレッチをし始めたことは前に書いた。嬉しいことに筋トレとストレッチが続いている。毎日筋トレとストレッチの時間を設けることがストレス発散の一つとなりつつあるのだ。なぜ毎日続いているのか、その要因を考えてみた。見た目や体調に良い意味で変化があることである。確実に腕や脚が引き締まってきた。 あと、達成感が得られる工夫がなされていることである。カラダが疲れている時はストレッチだけやるようにしている。ストレッチをやり終えたという達成感が「何もしなかった」という罪悪感を生ま
この記事を読んで不快に思われる方がいるかもしれません。そうした方はここから去って頂きたく存じます。 最近移植医療について考える機会があった。移植医療の話題となると亡くなった妹のことと繋がる。私の妹は心臓の大部分が形成されていない状態で生まれてきた。彼女が生まれたのは2001年。まだ「臓器移植法」にて15歳未満の子どもの臓器提供が禁止されていた時代であった。心臓移植をするとしたら日本でなく海外へ行かねばならなかった。海外で移植医療を受けるにはとてつもない財力が必要であった。そん
様々なしんどい思いを繰り返して来たが、やっと「自分磨き」をしたいと思えるようになった。体を動かすことさえしんどいと思っていたのだが、最近、ストレッチと筋トレをするようになった。ストレッチと筋トレのおかげでかなり体が軽くなった気がする。なにより見た目に変化があることがモチベーションとなっている。見た目に変化が出てくると、身なりも気をつけたいと思えてくる。1億年振りくらいに服を買った。こんなに「自分のため」のショッピングは楽しいものなのだと感じた。買った服に相応しい体型を目指して
この記事は私が心の整理をするために、これから私が私の人生を歩んでいくために、私の思いのまま綴る。だからきっとこの記事を不快に思う方もいらっしゃると思う。不快に思う方はこの記事から直ぐに離れて欲しい。 私の父は私が3歳の時、突然死んだ。何の前触れもなく訪れたその時は今もまだ私の記憶の中に焼き付き、未だに私の心を苦しめる。私は私の父がとても憎くてたまらない。私と母を置いて急にいなくなるなんて聞いてない。急にいなくなるなら私も連れて行って欲しかった。 母親と共にこの世界に
私はここ1年ほど自分の気持ちを言語化してみるということに挑戦している。このnoteへの投稿も私の言語化キャンペーンの一つなのである。 私自身自分の思いをきちんと言語化し、相手に伝えるということが苦手である。(特に威圧的な人に対して) というのも、幼少期に「自分の思いを伝えても無駄である。」と感じる出来事を何度も経験したことで、誰かに自分の思いを伝えること自体を諦めてしまったのである。諦めたことでより一層自分の心の扉を自身の手で閉めていたのではないかと今は感じている。 そ
人との関わりの方法は多様である。人との関わりにおいて文化的背景は多分に関係していると私は考える。文化的背景の違いと言ってもどのような点に着目して考えてみるのが分かりやすいだろうか?人との関わりで最も重要なコミュニケーションの違いに着目してみることとする。ここでは、英語と日本語で比較をしてみる。例えば、あなたは保育園に通う子どもである。遊んでいるときにトイレに行きたくなり、それを先生に伝える場合、英語と日本語ではどのように表現することができるだろうか?英語の場合は「Ms.〇〇
久しぶりの投稿となった。自分のメモに色々書き留めてはいたもののこちらで共有しようと強く思うものがなかったのである。そんな私であったが、ここ数日の間に様々な出来事があり、その中で感じたこと、つまり「身を置く場所の重要性」について今回は記していきたい。 誰にでも自分が「心地良い」と感じることが出来る空間と「居心地が悪い」空間があると思う。これを読んでいるあなたはどのような時に「心地が良い」と感じ、どのような時に「居心地が悪い」と感じるのだろうか? 私は今までたくさん「居心地
久しぶりに高校時代の友人たちと対面で会う機会があった。今回もとても有意義な時間を彼らと過ごすことが出来た。彼らと会い、語らったことが刺激となり、中学・高校時代について振り返り考える時間を自分自身で持つことができた。 私は中高一貫の学校へ進学した。中高一貫のため、同級生の入れ替わりなどがあまり無い環境で過ごした。とはいえ、高校に進学する段階で新たな人たちが加わったりと変化があった。私の中では、中学の3年間と高校の3年間では全く異なる学生生活であったと感じている。 まず中学
私はスギ花粉のアレルギーがある。毎年この時期になると以下のような症状に見舞われる。目の痒み、くしゃみ、鼻水である。この時期になるまで花粉症のことなど気にしないで過ごしているため、毎年のことにも関わらず、対応が遅れてしまうのである。 今年もスギ花粉が舞う季節となった。今年も対応が遅れ、今更花粉症のアレルギーの症状に悩まされ、薬をもらう羽目となった。 私の人生における悩みの一つ「花粉症」とどのように付き合っていくのか、それが私の課題である。