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人を悦ばせるのが好きだ

プレゼントを選ぶ、その時間が好きだ。渡す人との容姿、性格、発言。その人の全てを想って、自分の価値観と一緒に手渡す。「あなたの事をこのように認識していて、このように想っていますよ」と。手紙を書いても決して伝わることのない感情。自分の無意識が相手に伝わる瞬間が好きだ。予算の決定に関しても、「この人が喜ぶならこのくらい使ってもいいか」だったり、「この人は高すぎるものを渡したら気を遣うだろうな」だったり。僕がその人のためにどれだけ努力(=勤労)を提供できるかでもあるから好きだ。決して高いものを渡すべきとは考えていないが、努力が生んだお金を使うとはこういうこのでもあるのも事実だ。

 人の役に立つのが好きだ。プレゼント同様、自分の労力と時間をその人に提供することは、その人を大切に思っているからこそできると思っている。小さなことでは手荷物を持ったり、2人で行くご飯を予約してみたり。大学の課題を手伝ったりなど、その人の負担を減らす事が好きだ。感謝を忘れられても構わない。ただその人の役に立った瞬間が好きで、それ自体もすぐ忘れてしまう。

 笑顔を見るのが好きだ。自分の発言や行動がきっかけで人が笑うと、安心する。そうでなくても、人が笑っているのを見るのは好きだ。笑顔が見える空間には敵意が溢れていることは少ない。

 しかし、プレゼントを渡されたり、手伝ったりしてもらっても、素直に喜べない事もある。自分のために労力を使ってもらうことは、僕の望むことではない。あなたが幸せならそれでいいのに、あなたは僕を幸せにしようとする。それが不思議だといつも思う。

 それはきっと自分勝手だから。「人のためになにかをしている自分」に酔っているだけだから。それはきっと人を愛せていないから。僕を幸せにしたいと思ってくれてる人たちの気持ちを、本当の意味で共感して尊重することができないから。

 共感するのは苦手だ。僕にとって人と関わることはミステリーだった。状況や発言から推理することはできても、実感できない。同じ喜びを分かち合うことができない。人を喜ばせる言葉を使うことも、行動をすることもできる。だけどそれは気持ちがわかるからじゃない。単にその人の特性を分析して論理的に統計的に推理しているにすぎない。そもそも、僕は他人に対して怒りが湧いたことがない。何かをしてもらえると思ったことがないし、願ってもない。だから、人に好かれるのは苦手だ。同じ気持ちを返せないのが苦痛だ。だから僕は自分の事しか書かないし書けない。

 優しすぎると言われるのだろうか。人の心がないと蔑まれるのだろうか。「言わなくていいこと」の塊みたいな文章を読んだ人からは嫌われるだろうか。それともみな大人だから接してくれているだけで本当は好かれてもいないのだろうか。いつか愛想を尽かされるのだろうか。本心を伝えて欲しい反面、伝えられてもきっと理解できない自分がいるのだろう。人から優しくされるたびに、自分の嫌いなところが見え隠れする。

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