実家に帰った時の話。

週末、2022年6月11日の夕方の話。彼女が体調を崩したため、次の日のプラネタリウムのデートはキャンセルになった。現在は元気になったのでよかったが、11日の夕方から12日まるまると予定がなくなってしまうのも寂しかった。それと同時に、都会の喧騒にストレスを感じていたので田舎の友達に会いたくなったのである。足は日々の電車通学でパンパンになり、首は左右に振れば音が鳴るほどに体は悲鳴をあげていた。そして玄関を開けたときの孤独感は、まろんがいなくなってしまったことの寂しさを助長して眠れない夜になった。デートが無くなったことで少し安心感があったのは、どこかで自分の限界を感じていたからかも知れない。プラネタリウムの座席代が帰ってこないことなどどうでもよかった。今は少しでも早い時間の特急に乗り込むことだけを目指していた。荷物は最低限、スヌーピーのぬいぐるみは忘れずに。まろんの服と、遺骨のネックレス。これさえあれば大丈夫のリュックができたらすぐに家を出た。戸塚駅から品川駅までの東海道本線の中で、犬の整体調査のドキュメンタリーをサブスクで見た。犬とはなんと頭のよくで可愛い動物なんだろう。行動に理由だあるのが目に見える。そこらへんの鳥は急に動くし何を考えているかわからないから怖がる人もいるんだろうな、と考えている間に到着。品川駅からの常磐線は、ひたすらに移りゆく景色を眺めていた。高層ビルの数が減っていく過程に、目線も下がっていく。住宅街が増えていく過程に、子供の数も増える。緑の色が増える。考えれば当たり前のことすら、愛しく思う。帰っているんだと安心できる。線路をまっすぐ進めば帰れる。そんな安心感と幸福感に包まれながら、曇り空と緑に癒されていた。勝田駅に着くと母が迎えに来ていた。お疲れという母に安心感を感じたのだろうか。車の中でなぜ帰ってきたのか軽く説明をして、自分の心に何を求めて帰ってきたのか問う。家につき腹が減ったと言った時にご飯が出てくる。この当たり前と安心感を求めていたんだと実感する。頑張らずに生きてける街、守ってもらえる家。一人だけ、知らないヤツがいた。チンチラ。噂には聞いていた。姉が彼氏と遊んでばかりでほとんど家にいないからという理由で慰み者に選ばれたであろう4万円の命。名前をつけたのは俺だが全く愛する予定なんかない小動物め。まろんのトイレを平然と我が物顔で安全地帯にしているそいつの顔を一目見てやろうと小屋を開ける。何かが物陰に隠れるそぶり、見逃さなかった。思っていた2倍はでかい。まろんのような賢さはないが、ふわふわだった。母の手料理が食べたい、温泉に入りたい。そんな気持ちが膨らんでいた特急ひたちでの俺の願いは、全てここで叶う。温泉に行こうと思えば母の職場でもあるひたち温泉季楽里別邸に行き、天然温泉の掛け流しと水戸に続く田園を眺めることもできる。手料理を食べたいと願えば、願う間も無く、朝起きただけでどんなシェフでも再現しかねる味が待っている。小さい時から食に関する欲求が低い俺の口に、冷めちゃうからと自身のある料理を持ってくるのがいつもの流れだ。あまり食べれないのは知っているのに、食べきれない量の皿数を出してくるのもいつもの優しさ。帰省した夜は、実家の安心感よりも友達に会うことが最優先だった。戸塚に住んでいては、東京に通学していては、実家にいては現れない「俺らしい俺」が出てくる唯一の場所は、この友達とやら専用らしい。会うたびに自分らしさを再確認する。会うたびに自分の弱さを知る、強さを見つけられる。友達とやらがいなかったら愚痴を吐き出すしかない弱気な青年だった俺が、強さを蓄えて歩き出すために必要な時間。深夜のドライブも、いつものブラックジョークも好きだけど、そんなものは実はそれほど重要ではなくて、彼が自分をどう思っているか、自分に対してどのように接すればいいかわかってもらえている、そしてそれで一緒にいてくれる。それが何よりも安心するし、優しさを感じる。東京では普通じゃないと言われる俺も、彼の横では普通に戻れる。変でもいいやと思っているけど、変じゃなくなる安心感も大事に思う。「ほったらかし温泉行くか」の一言で始まったドライブも、時間がないからと言う理由で宇都宮に変更されたのも、いつも通り。どこに行ったっていい。何をしたって構わない。ただ一緒にいられればそれで満ち足りた。朝になって茨城県に入った帰り、田舎道で車を停めた。ゴリラの置物があったように見えたから見てみよう、と。湿った風と雨、鼻に無抵抗で入りこむ美しい酸素。田畑に峰の並ぶ姿、薄白く吐息が見える。草木は朝霧に濡れ、若緑が艶やかに色めく。雫に映り込んだ世界のまかふか、映り込む団子虫。鳥たちのデュエット。人間のタセット。この世界にようやっと入り込めた、という感覚。戻ってこられた安心感が、地元ではない常陸大宮市の国道沿いで湧き起こった。起き抜けのダンゴムシが朝露を飲んだ。人間が脇役の世界で、脇役たちは最も幸せになれた。朝にうちについて、少し眠たくなった。家に1人じゃないと言うことは、眠たい時に寝れることだ。一人暮らしをしてみるとよくわかる。朝起きて、学校に行き、しばしばアルバイトをして帰ってくる。そうしたルーティーンの中には、ルーティーンの準備とも言える行動の幾千が重なっている。起きて、アラームを止めて、白湯をいっぱい飲んで、トイレに行き、少し呆けてからタオルをとり、顔を洗って、歯を磨いて、髪を濡らして、化粧水に日焼け止め、ヘアミルクをお供に根本だけを乾かして、毛先をセットしてカールを出す。ようやく服を選んで荷物をまとめて家を出る。帰って来れば洗濯を回して風呂に入って、スキンケアをして洗濯物を干し、少しだらけてから床に着く。たった生きていくためだけに毎日どれだけエネルギーが必要なのか。自分のためにと割り切れる人は自分がいつまで生きていると思うのだろうか。誰かのためにと生きている人は、あなたの大切な人が死んだときに生きていけるのだろうか。生きていくためのエネルギーは、俺には少したりなかった。誰かからの愛が足りてなかったのではなく、それを受け取るだけの器の大きさが足りていなかった。手で掬おうにも指の隙間から流れていった。朝の常陸大宮。寝巻き姿で家から出てきたおじいちゃんにおはよう。当然のように帰ってくるおはよう。素朴な繋がり合いの連続だけが、僕たちの生きる力になった。人と人の強い繋がり、そうしてできた蜘蛛の巣の上だけで、僕らは生きて行ける。長いだけの仲じゃなく、他人同士の強い繋がり。矛盾しているようでわかりやすい。おじちゃんは村がヒトとヒトの繋がりできてることをとっくに知っていた。街があって、そこに集まった東京とは根本的に違うところだ。東京のどこで遊んでも、デートしても、戸塚のアパートに住んでいても、居場所がない。都会の日常の中に、俺だけ居場所がない。心が疲れた。俺の当たり前を、素の自分、弱い自分を受け入れてくれる街、背伸びしなくてもいい街を、ずっと求めている。そこに当たり前のひとがいてくれたら、なんて幸せなんだろうか。








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