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智恵子抄 編集者附記

前回の続きで、巻末にあった編集者附記の全文を載せておきます。
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編集者附記 澤田伊四郎

 『智恵子抄』を編集して世に出してから二十五年になる。当時三十代であった私がいつのまにか六十を越している。『智恵子抄』のために半生をかたむけてきたことになる。
 私はいつでも自分の創意のもとに、自分の気持を生かした独自な書物をつくることを念願としてきた。『智恵子抄』の場合もそうであった。『智恵子抄』は、最初から私の前にあったのではない。いまや『智恵子抄』は、かつてない純愛詩集とよばれ、稀有な愛の精神と賛えられて人々の感銘を深くしているが、それがこの世に出るまでは、智恵子という一女性がこの世のどこにいたことであろう。たとえそれがすぐれた芸術家の妻であり、狂気の佳人であることを知っても、人々はただ「おどろしき言葉もて」遠ざかるのであった。
 事実、光太郎先生自身でさえ、私が智恵子夫人に関する詩文を集めて持って行ったときには驚ろかれた。私の編集したものが何を意味するものか、それが他日、世の若い人たちにどんな影響をもたらすものであるかを知らなかった。先生にとっては「あれは智恵子という純真な女性に接したいろいろな時に、まったく夢中で書いたもの」に過ぎなかったからである。また多くの光太郎ファンは、詩集『道程』の中に先生が女性を詠んだ十数篇の詩があっても、それが智恵子夫人の前半生だと知るものが幾人いたであろうか。
 そういう頃に私は「風にのる智恵子」を読み、「智恵子の半生」を読んで感動した。そして私の出すべき書物の構想もきまった。
 私は先生の数多くの詩篇の陰にかくれている一女性像の断片をさがしもとめ、二年がかりでまとめあげた。それが一冊になったとき、今までバラバラであった一つ一つの詩が互いに緊密につながり、渾然こんぜんたる一体となって愛の絶唱をかなでるものになった。即ち、この世に『智恵子抄』が生れたのである。ー私は自分の手でこの詩集を世に送り出したとき、青年らしい感激で眠ることができなかった。
 あれから二十五年、いつも感謝をよせて下さった先生も逝かれて十年になる。私はなおかつ「かくも愛された魂」の拠りどころを守り、この高い、醇乎じゅんこたる愛情の散布人として生きつづけている。
 そして今後とも「亡妻智恵子に関する三十余年間の詩歌をあつめて一冊にまとめ『智恵子抄』と名づけて上梓し、先年ひろく世上にすすめてくれたのは、龍星閣主人澤田伊四郎氏であった」と書き残された先生の誠実な言葉に責任を感じ、『智恵子抄』を永遠に、更にひろく、根強く世にすすめようとするものである。それは私の使命であり、また私の誇りでもある。(昭和四十年八月記)




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