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【小説】持続可能なスコーン

 ずっと続けられることがしたかった。できたら死ぬまで。なんでもいいから、辛くなく続けていけるようなことがしたかったんですよね。それがきっかけで、最初はなんでもよかったんです。
 そう答えたら、どうなるでしょうか。いえ、答えませんけど。だって、ちょっと夢がないですものね。

 「ええ…『メイドさんになったきっかけ』なんて、改まって考えると……。なんででしょう? 気づいたら、ですかね?」
 あご先。軽く口角を上げた唇の下を、人差し指の第一関節で押し上げます。このくぼみを、人生でこんなに触ることになるなんて思いもしなかったけれど、今ではすっかり心が落ち着く体勢になりました。控えめに塗ったグロスが指につかないように気配りながら、わざとらしくない程度に、少ーしだけ頭を左に傾けます。

首から上が天から吊られているようなイメージで、なるべく首をスッと伸ばして、真っ白い襟を25度斜めに倒せば。
 さらり。
 一瞬遅れて、メイドキャップの後ろに長く長く垂れ下がるリボンが立てる、衣擦れの音。たっぷりの布たち。空気を湿らす紅茶のカップ。小さく流れるオルゴールの曲。ただの空間を、精一杯彩る「お約束」たち。
 「スンスンさんは、あるんですか? メイドさんを好きになったきっかけって?」
 「う〜ん。そう言われると、こっちもまぁ気づいたら、だなぁ」
 「ですよねぇ」
 「そうだねぇ」
 フフッ
 たわいもない会話。このたわいもなさが、わざわざ求めているものだ、ってお互いにわかっているから、目が合った瞬間、微笑み合うことができます。
 ああ、いいな。誰も損しないで、優しく過ごせる時間が好き。こういう、ほんの少しわかり合う瞬間。これは人生の、ほんの上澄みの楽しみだってちゃんと理解しあって、両手で大事に差し出したものを受け渡すとき。私が差し出したものを、はにかんで受け取ってくれてありがとうございます。ご主人様。

 「そろそろスコーンを持ってまいりますね。あと、紅茶のおかわりも」
 今日のスコーンは、プレーンとアールグレイ。アールグレイは茶葉をたっぷり使って、アクセントに胡桃を入れました。キッチンに向かう私に、スカートの裾が少し遅れてついてくる。ひらり、風をいなして踊るフレア。ご主人様の視線が、ゆらめきを追っているのを感じます。柔らかく、控えめに。私が見てほしい私を見守ってくれる視線は、足取りを軽くしてくれる追い風。
 ミルフィーユのように層を成すパニエのチュールと裏地が、動くたびにカサリサリと囁き合う。その上を足首まで豊かに覆い隠すスカート、黒いワンピース。そして、ひたむきなまでに真っ白い付け襟と、フリルたっぷりのエプロン。私にできる最大の誠意で、一生懸命アイロンをかけたエプロンとメイド服。特にエプロンのリボンには、パリパリに糊をきかせて。その準備が、全部が、ただの私を、メイドの私にしてくれるのです。

 そして、この服を着た私の一挙手一投足を感じようとしてくれる「ご主人様」がいてくれること。月に一度の日曜日。メイドの私が、ご主人様とお嬢様にスコーンとお茶を楽しんでいただく、というこの場の、ささやかなおもてなしの「お約束」。それをわかちあってくれる人と心の中で手を取り合うことで、私のメイド活動は完結します。

 物心がついたとき、私は家族のかわいい「妹」でした。世界の最初の住人はパパと、ママと、お姉ちゃんと、私。前橋のおばあちゃんと、おじいちゃん。世田谷のおばあちゃんと、厚子おばちゃんと、おさななじみのユウ君とマミカちゃん。私の世界の登場人物は、みんな私に優しかった。だから、世界は私にとって優しくて楽しくて、安心していられる場所だった。ただただ普通に、みんなのことが大好きでした。
 
 今思えば、子供の私を守ろうとしてくれてたんだと思います。または、私がのんびりっていうか、鈍くて気づかなすぎただけかもしれません。でもとにかく、シンプルに、心底信じていたものが急に壊れるのって、よくないと思うのです。「パパとママ、別々に暮らすことになった」って、ある日突然すぎる報告とか。

 青天の霹靂。成長した今なら、そんな言葉で表現できます。当たり前に信じてた地面が、サカサカサカ、サ、とつま先からかかとからヒビが入って、ハラハラと崩れていった。内蔵を両手で握り締めて、下から上にギューッと絞り上げる、あの身体感覚。怖いとか嫌だとか、一言で言える感情に落とし込めない。登りきったジェットコースターが加速して、フワッと重力から見放されるあの不穏。落ちるというほどの怖さはないままに、ただただ崩れ続ける足元。あの覚束なさは、今でも振り返ればすぐそこにいるような気がします。

 「ごめんね、こんなこと聞いて、本当にごめんね。でも、桃ちゃんはパパと一緒に暮らすってことでいい? もちろん、ママとも会えるから、大丈夫だから」
 目を潤ませながら、優しい声のママ。
 「パパとママでよく相談したんだけど、桃香はパパと一緒に住んだ方が便利だと思うんだ。世田谷のおばあちゃんと一緒に。桃香、おばあちゃん好きだろ?」
 土曜日なのに外に出かけるシャツを着た、真剣な顔のパパ。
 「ママはね、桐夏と一緒に今のマンションに残れたらって…。だから、桃香もいつでも来ていいし。お姉ちゃんの学校には、こっちの方が便利でしょ、だからね」
 「もちろん、桃香がどうしたいか言ってもいいんだよ。パパもママも、桃ちゃんと桐ちゃんの気持ちを大事にしたいから」

 大好きなパパとママは、子供に「どっちを選ぶ?」なんて聞いちゃいけないことをよく知っていました。でも、一つだったものがバラバラになる過程では、どうやったって何かを選んだり選ばなかったりするしかない。かわいいかわいそうな子供を、傷つけないように。選択を迫るのではなく、大人たちによってよくよく配慮された優しく心のこもった「提案」。あたたかな配慮、気配り、子供を守るべく掲げられた正論。「振りかざす」みたいな攻撃性はなくて、知的な愛に満ちた対応。そういうことができるパパとママだから、私は好きだったし、信じていたのです。何の疑いもなく「幸せな子供」をやらせてもらっていました。

 「これからも、何も変わらないよ」
 「パパもママも、桃ちゃんのことが大好きだよ」
 びっくりして泣いてしまった私に降り注がれた愛の言葉。パパとママは一生懸命だったし、その思いに嘘は全然ないことを、あの時も今も、わかっています。
 でも同時に、嘘がない嘘なんて、最悪だとも思うのです。夫婦の離婚、別居という現実を悲しいと思って、寂しいと思って、嫌だと反抗するには、パパとママは正義すぎました。そして私はパパとママとお姉ちゃんと、幸せだった私のことが好きすぎたのです。

 振るって冷やした小麦粉。角切りにして、よーく冷やしたバター。水滴が残らないように丁寧に拭き上げたボウルとスケッパー。必要なものひとつひとつを、落ち着いて準備します。
 サク、サク、サク。
 小麦粉のゲレンデに、バターがダイブ。雪景色を掻き分けるスケッパー。上から下に差し込む時は迷いなく。下から上にすくい上げる時は軽く軽く。粉の中に潜むバターのかけらを捜索して、サクッ。繰り返して繰り返して、真っ白だった小麦粉がほんのり黄色く色づくまで。ここでバターと粉を混ぜすぎないのが、自分なりのこだわりです。ほとんど粉だけれど、かすかにバターの粒感がある。この加減は、言葉では説明できません。あとはもうひとつ、内緒ですけど、牛乳も普段飲むより乳脂肪分が高いものを選ぶことにこだわっています。

 おいしいね、モカちゃんのスコーンはいつもおいしい。
 わーモカちゃん! 今日のフレーバー今までで一番好きかも。
 へぇ〜! スコーンってこんなにおいしいんだ。 前もおいしかったけど、なんか思ってたよりおいしくて驚いたわ。え、おみやげ? 家でも温めできる? じゃぁそれも買おうかな。 

 少しずつ注ぐ牛乳。切って、まとめて、切って、注ぐ。私のスコーンをおいしいと言ってくれた人のことを思うと、もっとおいしく作れる気がします。ギリギリまで手を使わずに、スケッパーとシリコンスプーンで生地をまとめます。私は手のひらが暖かい方なので、バターが溶けすぎないように。

 はじめはただレシピの通りに作っていたけれど、段々自分なりのこだわりが増えていくのが嬉しい。こだわるためのこだわりじゃなくて、手を動かして、何度も作って、自然にこだわりたいポイントが見つかって、増えていく。その経験は、未来に向かって私を育ててくれると思うのです。

 「どうぞ、本日のスコーンです。プレーンとアールグレイになります。アールグレイにはクルミが入っています」
 テーブルにスコーンを置く。お客さんの視線が、お皿に吸い寄せられて、一瞬見開かれて、嬉しそうに細くなる。
 「クリームとジャム、どのくらいにいたしますか? 今日のジャムは、夏蜜柑のマーマレードです」
 スコーンの傍らに、クロテッドクリームとジャムをサーブします。あんまりたくさんクリームを所望していただくと実は赤字なんだけれど、好きなだけクリームを乗せる瞬間の至福を味わってほしいから、これは絶対必要経費です。

 高さを出して型抜きした生地が、オーブンの中で一度グッと背伸びして、腰を落とした、いわゆる「狼の口」「腹割れ」と呼ばれる亀裂。今日は見事にくびれていて、我ながらほれぼれする焼き加減です。
 ひょい、サクッ
 手慣れた手つきで2つに割られたスコーンが、ご主人様のお口の中に消えていきます。サクッと気持ちいい音…は、多分私の心の中で鳴ったもの。可憐なカケラの音は、味わう当人だけに聞こえるくらいのささやかさが丁度いいと思うのです。
 「いってらっしゃいませ、どうぞお気をつけて」
 1時間半のティータイム。今日のお給金をいただいたら、そろそろ解散です。
 「じゃ、また」
 軽く首をすくめてドアを出て行くご主人様を、角を曲がるまで見送ります。おじぎしたほうがメイドさんらしいけれど、顔を上げるタイミングが難しいので、普通に手を振るのが私のスタイル。スンスンさんは振り返らないタイプだと知っているけれど、でも、もしかしたら、今日だけは振り返ってみようと思うかもしれません。その時、笑顔の私でお見送りをしたい。そう思うこと、だから背中を見つめ続けること。それが、私にとっての“メイドさん”らしさです。

 すべてのご主人様をお見送りして、レンタルカフェの片付けをします。メイド服を脱いで、あるべきものをあるべきところに納めて、シンクをピカピカに磨き上げる。
 スコーン、今日はちょうどいい数でよかったな。
 慣れた場所で、片付けが全部終わっても時間に余裕がありました。入り口から見える席の電気を消して、ひとつだけ残ってしまったスコーンを、朝買ってきたペットボトルの紅茶と一緒にいただきます。
 うん、おいしくできてる。
 焼きたてのサクサク感はなくなっているけれど、その分落ち着きのある小麦とバターのいい香りがします。室温になじんで、こなれたハーモニー。歯ざわりにはリズム。うん。昨日より今日がおいしく作れる、というのは無理があるけれど、初めて作った日よりも今日の方がおいしいことは間違いありません。だからきっと、5年後はもっとおいしくつくれるはず。
 鍵をかけて、ポーチにいれてポストにポン。最後に撮った室内の写真を家主さんに送信します。まとめておいたゴミの袋ををぎゅーっとエコバッグに押し込んで、反対の手でキャリーを引く。
 日曜日はもうすぐ終わります。
 私鉄の駅が見えてくる頃。週末メイドの余韻は、心地よい疲労感に変わります。家に着いたら、今日お嬢様からプレゼントしていただいた入浴剤を入れて、お風呂に入りましょう。

 変わらないものなんてない。幸せは、ずっと続くのかよくわからない。信じていた幸せも、ある日変わってしまうことがあることを、私は知っています。

 たいした理由はありませんでした。はじめは。アイドルになりたい、モデルさんになりたい、コスプレもしてみたい…。そんなよくある憧れ。でも、人前に立ったり、人気がなければ続けられないようなことをするのは、自分の中でちょっと違うと思っていました。違う…いえ、違うというより、怖いと思っていました。ただそこにあった幸せを失くすだけでもあんな気持ちになるのに、自分で頑張って手に入れた幸せを、さらに奪われないように走り続けなければいけないなんて、無理だと。若くなきゃ、かわいくなきゃ、人気者じゃなきゃ、何かになれないんだと。

 今日の荷物をほどいて、まずメイド服をハンガーにかけます。もちろん洗濯はしますけど、それまでだって労わってあげたいですから。
 メイド服はただの服。でも特別な服。この先いくつになっても、私は胸を張って着ていける。実際に袖を通してみて、こんなに守られていると感じた服は、私には他にありません。私にとってのメイド服は、働いて、おもてなしをするための制服。その役割に対して失礼がなければ良いのだ、そう考えた時、「私がメイドでいること」は「私が辞めなければ続けられる」と思って、とても嬉しかった。

 ゆるやかに、優しさと楽しさを分かち合える場所をつくって、それを続けていけたら、素敵だと思いませんか。メイド服が似合うおばあちゃんを目指すのは、ずっとピカピカのアイドルで居続けることより、わりあい現実的な目標だと思いますし。
 ご主人様がご主人様であることは、始めたり、辞めたり、流れて変わってしまうこともあるでしょう。それはそれで、自由があることは好きです。愛と軽やかさが両立する関係。それが「ご主人様とメイド」の間の愛おしい、名付けようのない、曖昧であたたかな空気だと思うのです。
 誰かをおもてなしすることは、こんなに自分自身も満たしてくれるなんて、想像もしていませんでした。お給仕している間は、私自身が、心に住まわせているメイドさんをしばし外に出してあげるような…。うまく言えないですけれど、おもてなしは、おもてなされることでもあるのです。私にとっては。
 変わらないものなんてない。でも、私にできることを続けていくことはできると思うのです。大事にしたいものを見失わないように、意思のある継続です。エプロンに丁寧にアイロンをかける時間。大切に、心を込めてスコーンを焼く時間。もっとおいしく焼けるように、と思い続けること。私が選んで、決めて、続けて、それを誰かと分け合えれば。

 オフロガ、ワキマシタ。

 荷物から出した入浴剤。カモミール、ラベンダー、レモングラス。どれも大好きな香りです。プレゼントしてくださったお嬢様の笑顔が浮かんで、思わず微笑んでしまいます。今日は、よく眠れるようにラベンダーにしましょう。
 
 もし、もしも。もしもこの先、誰も食べに来てくれなくなっても。何かの事情で人前に出られなくなったりしたとしても。今日のような1日を思い出せれば、大丈夫。あたたかなお茶会の空気を思いながら、上手にスコーンを焼けたら、そこにはご主人様の概念があると思うのですよ、極論を言いますと。この実感は、この先ずっと誰にも奪われない、私の宝物です。

 これが私の、持続可能なメイド活動。そして持続可能なスコーン。きっとまだまだおいしくなるので、いつかあなたにも、食べていただけると嬉しいのですが。
                                              〈了〉

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