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雨の日と、写真をとりたくない日のこと

○雨の日のこと

海士町にいた2週間、ほぼ雨か曇りだった。
雨も悪くはないのだけど、連日だと気持ちもしめしめしてくる。
外に出る気もあまり湧かず、旅先なのにベッドでごろごろした日も多かった。(宿のねこちゃんとたくさん遊べた)

お世話になった宿を出る時に、オーナーに「次は晴れてる時に写真撮りに来ますね!」と言うと、
「俺は雨が好きだよ、晴れなんてみんな好きなんだから。逆張りでいけよ」
と言われた。
おお、ロックだ、と思った。


○写真を撮りたくない、と思う瞬間


写真を撮ることは好きだけど、「写真を撮りたくないな」と思うときも多々ある。

それは、どんなにいい瞬間でも、相手が撮られ慣れてない人だったり、カメラを取り出すことで空気を崩してしまいそうなとき。
周りの他の人たちがみんなカメラを構えているとき。

わたしの「撮りたい」という気持ちと、相手の撮られたいという気持ちは重なっているだろうか、とよく思う。わたしが残したい、と思っていても、相手は残されたくない瞬間かもしれない。

私がこの場で撮ることで、撮られる人や周りの人はどう思うだろう、と気になってしまう。撮ることで、失われるものを考えてしまう。

例えば静かな喫茶店。シャッター音をパシャパシャ鳴らして撮ると、写真目的で来た人だと思われてしまいそうで、そんな時わたしはカメラを取り出せない。
旅先で出会った駄菓子屋のおばあちゃんが、「最近の若い人たちは許可も取らずに写真を撮って載せる。私はお客さんなんてたくさん来て欲しいわけじゃないのに」と言っていたことを、つい思い出してしまう。

スマホにカメラがついたことで、写真を撮ることは身近なものになった。
その分、写真を撮ることのイメージが丁寧なものというより、野蛮なものになったような気がしてまう。

「与える」というより「奪う」もの
「全体を受け止める」というより「一部を切り取る」もの

心のどこかで「わたしはパシャパシャ写真を撮るあの人たちと違う」と思いたい自分がいる。一緒にされたくない自分がいる。

みんなが良いと思っている景色なんて、私が撮ってもしょうがない、と思ってる逆張りな自分もいる。


わたしは、奪うより与える写真を撮りたい。
部分より全体を受け止める写真を撮ってみたい。
撮る人と撮られる人の気持ちが重なるような写真を撮ってみたい。
他の人ならシャッターを押さなかったような瞬間を、撮ってみたい。

自分の言動によって周りの人がどう思うかを気にしすぎるところ、流行りに乗っかる人と同じだと思われたくない逆張り精神。
そんなの気にせずにガツガツいけよ、と言う人もいるかもしれないけど、どうしても気にしてしまうところは、わたしの譲れない部分なんだと思う。

わたしが大切にしているものが、何かを守る日がちゃんと来ると信じて、シャッターを押さないでおく。


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