裁判という国家の倫理基準

裁判とは行為の是正を問う場所である。国家に対して、あるいは民間同士での見解の相違を、国家の判断として国家のルールがいかに解釈するかを決めるものである。つまりこれは、その国おいての正当性がどこにあるかを明らかにする行為であり、国家の倫理基準がどこにあるかを示すものである。それは個人の善悪判断を超えて、国家の運用方針に沿っているかというハウスルールであり、国家に縛られる以上は順守しなければならない。裁判所で判断されたことが正当な判決であり、それが今後の行動基準となる。

ゆえに、その判断を下す裁判長の判断というものは絶対であり、国民はひとつひとつの判断を重く受け止めなければならない。だからこそ、判決に至った判断というものはもっと明確に国民につきつけねばならないと思うのだ。

ルールに対してどうジャッジするかということは難しく、状況が絡めば絡むほど判断はしずらくなる。あれをたてればこちらがたたずと、総合的にどう判断するかがポイントとなる。つまり結果だけみてもなぜそう判断されたかまでを追うことは難しく、説明するほうも困難ではあろう。また、いろいろな思惑が絡むことでは、説明が難しい場面もあるだろう。
しかし、裁判とは国家の倫理基準なのである。であるならば、その判断というものは広く国民に理解されるものでなければならないはずだ。完全に同意ができなくても、こういったルールと状況からどう判断したのかを明らかにせねば、基準となる国家のモラルさえ浸透しないではないか。ゆえに、国民が感心をよせる重大な事実であればあるほど、その判断基準を明確に周知する義務がないだろうか。そういった判断基準を知らせる報道というものがもっと必要なのではないだろうか。

むろんその判断が常に正しいとは限らない。運用側とされる側では意識の剥離もあるだろう。だがそういった溝は互いにうめていかねばならないし、強いロジックを生み出すことが争いを避けるひとつのカギとなるのではないだろうか。

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