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今まで積み上げたガラクタ

10月の3連休を過ごした。


先月はジョン・ウィックの公開日に有給取ったので、そこから2週間後にまた3連休があるのは嬉しい。過ごしやすい気候になってきたので何かしようと思ったけれど、今月も懐は冷え切っているので、大人しく家に居ることにした。

連休初日は近所の神社で秋祭りがあって、夕方からお神楽やお神輿が練り歩いていて、僕は部屋からそのお囃子を聞いていた。
やっぱり子供の頃から聴いている地元の祭り囃子というのは耳馴染みがあって、昔を思い出して懐かしかったり、切なさをはらんだ秋の到来を感じさせてくれる。
その地域に根を下ろす人間は特に感傷的になる。

きっとそういうものを伝統や風物詩と呼ぶんだろうな。

この先もずっと続いて欲しいな、と思った。

友達夫婦から「子供連れて神社行くから会おう」と連絡があった。暗いニュースばかりで気が滅入っていたし、折角だ。
ついでに外で安酒でも飲もうかと思い家を出た。

神社に着いてみるとまだ時間が早かったようで、人出はまばらだし、屋台のお姉さんは暇そうにしているし、今ひとつ盛り上がりに欠ける雰囲気だった。
それでもまあ、とりあえずお酒を買ったりして「昔より屋台減ったな」とか思いながら、法被姿の小学生や、恐らく一張羅であろう服装をお互いにからかい合う中学生たちを眺めていた。少し痛いけど、尊い光景。
きっとこの子たちはまだ、ここが世界の全てなんだろうな。


パック酒片手に歩く境内は子供の頃よりずっと狭く感じて、いつの間にか物差しだけが肥大化してしまった自分に気付いて、嫌になった。

友人と駄弁って適当にぶらぶらして。その日の夜は寒かったので早めに解散した。それからはもう何もやる気が起きなくて、ダラダラと時間を浪費していた。

ゲームやって飯食って。
風呂から出たらまたゲーム。
10年前から何も変わってない。

周りはみんな家庭をもったり、家とか建てたり。独り身でも、僕みたいな斜陽産業勤めじゃなくて、偉くなったり、趣味に注ぎ込んだり、遠くへ旅行したり。
深夜になってSNSを見れば、本当は行きたかったナイトイベントとかの投稿が目に入ってきて、「コロナの制約も無くなったし、目一杯楽しんで来てね」って気持ちと、「自分は何をやっているんだ」って気持ちがぐちゃぐちゃに混ざって、どうしようもなくなっていた。

(ナイトクラブ、夜通し酒飲んで騒ぐという行為がメニエールの発作を引き起しそうで怖くて、もう無理かもなと思ってる節はある。行けばきっと楽しいんだろうけど、迷惑かけそう。)

次の日も、無限の虚脱感と焦りに襲われて、常に喉仏の辺りを圧迫されているような感覚が酷かった。

そうして「何かしなきゃ」と考えていたら連休が終わった。
まーじ辛い。何なの。


そしてまたSNS眺めていたら(もうそれを辞めたら良いと思う)、「クォーター・ライフ・クライシス」というものについての投稿が流れてきた。
なんですかそれ。

クォーター・ライフ・クライシスとは、20代後半から30代が陥りがちな幸福の低迷期のことである。社会に出て生活に慣れてきた一方で理想と現実のギャップに違和感を感じたり、同年代や周囲の人と自分を比べて落ち込んだり、自分らしさを見失って自身はどう生きていくべきなのかさえ分からなくなる混乱したりする状態

引用元: https://www.profuture.co.jp/mk/recruit/management/39512

だって。
病気とかではない、いわば「思春期」みたいな誰もが通る道で、30歳前後で無性にメンタルやられる時期なんだそうな。
確かにそれぐらいの歳になると情緒不安定になるってのはよく言うよね。
でも現実のギャップに絶望するって言ったって、後悔先に立たずだろう。
取り返せないコンプレックスがあるから、毎日こんなに苦しいんだ。


「私これなのかなぁ」
コメントでそう言ってる人がいて、凄く腹が立った。



なんだそれ。
他人の作った枠に自分の感情を当てはめて


「私これなのかなぁ?」

主体性がなさすぎるだろ。
自分の気持ちも誰かに名付けてもらわなきゃわからないのか。
外野も、他人の喜怒哀楽にすぐ名前を付けようとする。
違うだろ、人の心というのはもっと複雑でそれぞれ違っていて……。


そう憤りながら、気付いてしまった。


実のところ、
今、ほんの少しだけ楽になっている自分に。
なぜだろう。




クォーター・ライフ・クライシス。
めちゃくちゃ当てはまるから、これなんだと思った。

ああ、誰でもなるものなんだな。
こんなに悩んで辛いのに、「そういう時期だから」で片付いちゃうんだなぁ、これ。恥ずかしい。

思春期の子たちのこと笑えないよ。
「あのおじさん情緒不安定で、きっとクォーター・ライフ・クライシスだぜ。」とか言われちゃうよ。恥ずかしい。

この葛藤は、心の中にある自分にしか分からない特別なものだと思っていたのに、「誰でもなりますから、心配しなくていいですよ(笑)」って。恥ずかしい。

昔からずっと大事にしていて、売ればプレ値が付きそうなレア物だと思ってたオモチャが、見渡せば実は皆が持っていて、中古屋に行けば叩き売りされていた──みたいな気分だ。(分かりづらい)

恥ずかしくて、寂しくなった。
これまで悩んで積み上げた自分の中の“人間的な深み”みたいなものの値打ちが、本当はタダ同然でしたと言われた感じ。
それで少し楽になっちゃってるんだから世話ない。
そんなに簡単に仕分けられてしまうようなものを「人の心」と呼ぶのなら、いっそ脳みそに電極でも刺して、能天気な性格にさせてくれとも思った。


でも実際そうなんだ。
感情はただの電気信号だっていうし。




別にインターネットの情報を全部鵜呑みにするほど短絡的ではないけど、この概念は一般的で、少なくとも僕よりずっとアタマの良い専門家が広く提唱していて、根拠になる統計があって、誰にでも訪れるものらしいから、もう受け入れざるを得ないよね。


じゃあ何で“少し楽”になってしまったのだろう。


多分だけど、データに裏付けされた「何も特別なことではない」という“反論できない事実”が“強制的な存在の肯定”になったからなのだと思う。友達や家族に「大丈夫、なんとかなるさ」と励まされるのとは違う無慈悲なまでの説得力がある。


結局、僕は劣等感とかを、いつまでも捨てられないお気に入りのオモチャみたいに溜め込んで、いつかそれを武器に特別になれると思っていたんだよな。


何にもなれなかったけど。

この苦しさを、他の誰にも理解されぬものと決めつけて、大衆と同列に扱われることにより「笑っている彼ら」より「ずっと悩んでいる自分」の値打ちが下がってしまうことを恐れていたんだろう。
いわゆる「プライドだけはすこぶる高かった」というやつだ。


ずっと、「苦悩こそが、人を人たらしめる」と思っていた。
脳の電気信号ひとつに苦しみ続けることは、確かに人間らしさというのかもしれない。

でも自分の苦悩が、何も特別なことではないということに気付いて、気持ちが楽になってしまった。
自分の悩みや価値観・立場を、あえて一般的な概念に当てはめて考えることは、必要なことなのかもしれないと思った。視野を広く持つとか、視点を変えるということは、つまりこういうことなんだろう。
そうすれば、もしかしたら意外と近くに同じ思いを持つ人を見つけられるかもしれない。仲間になれなくとも、その存在をお互いに認識することが、この鉛みたいに重く暗い気持ちを和らげる第一歩になるのかもしれない。

そしていつか「過ぎてみれば、大した問題ではなかった」思える時が来たら、それは良いことだよね。
そうなった時に初めて、今まで苦悩した事実や、それに費やした時間が、自分の価値に替わるんじゃないだろうか。
きっとそれを、成長と呼ぶんだろう。

「自分を大切にする」ということが、本当はどういうことなのか、その本質に少しだけ近付けた気がした。
「特別でない自分」を認めることは決して自己否定にはならないのだと、世の中が示している。
そして世の中は、僕に期待などしていないのだ。
それなら、足を重くするハリボテはさっさと脱いでしまおう。

これからまた、どうしようもなく卑屈になってしまった時は、
一回立ち止まって、この記事を見返してみようと思う。

中学生以下の語彙でも何とか文章になったかな。
面白いポスト流してくれてありがとうフォロワーさん。
おわり。

https://open.spotify.com/intl-ja/track/6VFrg5RLvB61bzTJ1qYwqH?si=0c918178b4ea462a

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