4月某日、ナルキッソス

山の方に新しいサウナが出来たというので行ってみると、素っ裸で整っているTがいた。Tは恋人と毎週のようにここに通っているという。もうすぐ結婚するという。

Tの恋人は美樹という。数年前僕は歯医者の娘と付き合っていて、好きじゃなかったが、裕福なので大事にしていた。当時の僕は借金まみれの素寒貧で、彼女の実家を頼りにしていた。美樹はその子の幼馴染だった。

歯医者の娘は大学生になったばかりで、美樹より先に恋人が出来てうわついていた。お節介にも美樹に彼氏を作ってあげようと夢中だった。僕がTを紹介すると、知らぬ間に二人は付き合っていた。まだ肌寒い四月に四人でいちご狩りをしたのを最後に、僕は歯医者の娘と別れ、それ以来美樹と会うこともなくなった。

Tがサウナ帰りに美樹と三人で飯でもどうかと言うので、気が乗らなかったが、用もなかったので行こうと言った。美樹にはきっと迷惑だろう。僕は明らかにお呼びでない。髪を乾かしながら美樹の面影を思い出してみた。久々に会った美樹は記憶のそれよりもずっとずっと大人びていた。

Tも美樹も僕よりずっと年下で、知り合った時は二人ともまだ十代だった。その頃僕は三十手前で、大人のくせに仲間内で一番子供じみているとからかわれた。

美樹は始めすっぴんだからと言って顔を伏せていた。僕が大げさに屁をひると、美樹は笑ってすぐに打ち解けた。一緒にいちご狩りに行ったのがつい一昨日のように思える。この五年間、いろんなことがあった。人が死んだ。戦争があった。この地方の人には珍しい美樹の鳶色の目は五年前のままだった。

二人の行きつけの店があるというので、置いてきぼりを食らわないよう、Tの青いインプレッサにぴったりついて行った。たまに助手席の美樹が振り返って手を振った。僕らの間に別の車が入ると、美樹は心配そうにキョロキョロとこちらを振り向いた。

美樹が振り向くたびに僕は作り笑いでそれに答える。たまにカーブで見えなくなる。Tの車のテールランプが光ると、僕も続いてブレーキを踏む。もうすぐ薄暮だ。畦のところどころに野生の水仙が群生している。遠山の雪は溶けかけている。置いて行かれないよう僕が必死に追いかけているのは、当たり前の幸福だろうか。ナルキッソスは決して手が届かないものに恋焦がれていた。水に落ちる寸前、彼がエコーを想うことはなかっただろう。彼は生涯孤独のままだった。

美樹が幼い頃から親しんでいたというそのラーメン屋はちっとも美味しくなかった。Tはもともと無口な男で、美樹ばかりしゃべって僕がそれに相槌を打った。この四月から大学院に進学したという。バイトで行ってるクリニックが忙しすぎて毎日泣いているという。明日もバイトで、それを思うだけで絶望的な気持ちになるという。今夜のうちにそのクリニックを焼いてしまおうと提案すると、美樹は心底嬉しそうにしていた。かいゑ君が大人になってなくて良かったと言った。

帰り際、Tがトイレに行くというので、店の前で美樹と二人きりになった。この地方の四月はまだ肌寒い。外はすでに暗かった。俄かに美樹が女に見えて、気まずくなった。信号機が点滅し赤に変わった。目が合って、風が凪いだ。今ならキスできると思った。美樹の肩を抱かずに目を反らした僕は、何を守ろうとしたのだろう。

数日後、Tから結婚式の招待状が届いた。旧い友達から絶縁され、肉親の冠婚葬祭にさえ一度も呼ばれたことのない僕にとって、初めての結婚式だ。

「かいゑ君が大人になってなくて良かった。」

これでもね、少しは大人になったんだよ。美樹は知らないだろうけど。幸せであれと心から願えるのは、君が僕の人生とは全く無関係な存在だからだ。

大人になることは、何かを諦めることだろうか。この世界には他者を愛せる人とそうでない人がいて、両者は互いに交わらない限り傷付け合うこともない。水仙は常に一人ぼっちで咲いている。メジロの声はもう聞こえない。もうすぐ五月だ。

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