秋なので

 秋なので、懐かしさに侵されてる。

 前田が言っていた北口のカレー屋のことや、歩の部屋の窓から見た向かいの家のカーテンなど、およそ斜陽という斜陽に射抜かれた風景の数々をなんの脈絡もなく思い出している。唐突に思い出しては握り損ね、記憶は鮎の掴み獲りみたいにつるりと秋空を横切って行く。

 ヒワが鳴く。夏の名残りを匂わせる。

 ■

 アパートのロフトには万引きした本が積み上がっていて、読みもしない室生犀星の全集が、ページを開いたこともないのに、子供の頃から慣れ親しんだ実家の家具みたいになっている。とっておきの佳日のためにパケをはさみ隠しておいたメルロポンティはどこに行ってしまったのだろう。あるいはそれと忘れて友里に貸したり、古本屋に出してしまったのかもしれない。
 アルバイトの小僧はパケを発見し、ちかまさり、しめしめと裏のガレージで至福の一服を嗜んだに違いない。買取不可のがらくたの中にバルテュスの画集を見つけ、美しい少女の脚に接吻しただろう。遠く清水門の桜の木に、死ぬ機を逸した十一月の蝉が鳴くのを聞くだろう。即ち店主は寂滅し、小僧はレジの金をくすねて九段坂を一目散に駆け登るだろう。その時彼が仰ぎ見た空は鼻で触れることができるぐらい低かったと、塩尻に檀家を持つ米寿の和尚が言っていた。猫は成仏しただろうか。

 ■

 君の名をググって、君のツイッターのアカウントを見つけて、それが八年前から更新されていないのを知るに及んでを繰り返して。秋には時間が止まってしまうのだろうか。世界の輪郭をなぞるのに、あとどれだけの別れが必要だろう。季節は前に進んでいるはずなのに、また振り出しに戻ってる。

 オルフェウスがこちらを見たら煙みたいに消えてしまおうと思っているのに、彼はなかなか振り返らない。さよならを言うタイミングを逃がし、おしっこがしたいのを我慢して、君の背中を見つめ続けてる。
 日暮れ前。一面のツユクサの群青に阻まれて、エウリュディケは蜻蛉になりたいと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?