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「挑戦」なんて、しなくてもいいと思う


この世の中、「挑戦することは素晴らしい!」とか「失敗のは挑戦しないこと」とか、そういった言葉が溢れている。
挑戦礼賛、挑戦至上主義。

私とて今までの人生で数多くの挑戦をしてきた。
大学受験とか就職活動、転職活動といった人生の岐路。
夕飯に新しいメニューをつくってみる、普段は歩かない道を歩いてみる、早起きをしてみる、あまり読まないタイプの本を読んでみる。日常生活の延長にあるこういった行動だって間違いなく挑戦だったはず。

人生は選択の積み重ね。
だから、当然のごとく、その選択の何割かには挑戦が混ざってくる。

しかし、私は、この世の中にあふれる挑戦信仰、挑戦礼賛、挑戦至上主義は危険だと心底思う。


先日、知人から某芸人さん原作の映画に行かないかと誘われた。
最近オンラインサロンにハマっているらしいということは、風の噂で聞いていた。
でもいざ自分のところに連絡が来てしまうと、なんというのだろう、とても悲しくなってしまった。

たいした交流があったわけではない私にまで連絡をしてきたということは、かなりの数の人に連絡をしたのだろうと想像できる。
(あえて遠い関係性の人から連絡をする、という羞恥心からくる行動をとれる精神状態にはないだろうし)

ご時世柄外に出たくないこともあり、丁重にお断りしたわけだけれども、この出来事はどうにも私の中にもやもやを生み出した。

そこからTwitterを中心にとにかく「プペル」と「オンラインサロン」のことを調べまくった。noteもたくさん読んだ。
おそらく今の私、オンラインサロンの内部の人の次くらいには界隈の情報を持っている。
何をやっているんだか分からないけれど、私は人の闇を見るのが好きな屈折した人間なので、もはや「プペル」と「サロン」信者さんたちのオタクになってしまった。こわ。

「何者かになりたい」という思いでちょっと怪しい道に突撃してしまう人たち。

「何者かになりたい」は、インフルエンサーが持て囃される昨今に生きると持ってしまう思いなのだろうと理解できる。
そりゃあ私だって、自分の名前で仕事をもらって食べていける人間になりたい。(そっちのほうが仕事探し楽そうだし…)


それはまあいいとして、それ以上に私が怖かったのは「挑戦を応援!」という文化だった。

挑戦する人を応援するのは好きだ。
(だからこそ予備校の講師なんていう挑戦を応援する権化みたいな仕事もしている。)

でもそれは、叶えたいことがあるから挑戦する人のこと。
目的をかなえるための手段としての挑戦だ。

何者かになるために挑戦をする。良いだろう。
では、どんな人になるためなの?
○○さんみたいになりたい!だから〇〇さんが昔やっていたことをそのままマネする!はまだ分からなくもない。

しかし、とにかく何かに挑戦したい、という思いでする挑戦ほどむなしいものはない。
「とにかく何かに挑戦」をした先には、その挑戦を礼賛することしか存在し得ないから。
「挑戦」がどれだけうまくいかなくても、その挑戦は絶対に肯定される。

なんならば、「とにかく何かに挑戦」したという事実そのものが肯定され、また新たな「挑戦」をせねばとがむしゃらになっていく。

しかも多くの場合、「とにかく何かに挑戦」する人は、「とにかく誰かに挑戦を見ていてもらいたい」のである。
だからこそ、日常にあふれる小さな挑戦では飽き足らず、人目に触れる場所で、またはあえて人目に付くようにして「とにかく何かに挑戦」するのだ。

そうしているうちに、きっとその人の周りには、「とにかく何かに挑戦」していない人を認めてくれない人ばかりになっていく。
自分自身も「とにかく何かに挑戦」していない自分を許せなく・愛せなくなっていく。


挑戦することは良いことなのかもしれない。
でも、現状を維持することだってまた大きな挑戦なのではなかろうか。
あなたが「とにかく何かに挑戦」する人でなかったとしても、それはあなたがこの世界に存在していけない理由になるわけではない。

毎日を生きることで精いっぱいでも良い。
今日をただ生きることを頑張ることも、特にこのご時世、十分な「挑戦」なのだ。

だから私は、誰かに無責任に「とにかく何かに挑戦」しろとは言えない。
そんなことを強いたところで何にもならない。
日常の中の小さな挑戦を大切に拾い上げて、心の中に留めておけば、それで良いのではないかなと思う。


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