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ほとんどの人が一生無縁の履きものふたつ

たった一足の靴が人生を変えてしまう事もある。──『シンデレラ』


タイトルに上げた"履きものふたつ"が何か、最初に答えを言ってしまうと、それは〈ポワントトウシューズ〉と〈一本歯の高下駄〉です。

もちろん、中には自分もそれらを履いた経験がある、という人もいらっしゃるかもしれません。けれど、その両方を日常的に履いている、という人はさすがに少数派ではないでしょうか。


こんな話題を持ち出すからには、私はその少数派の一人で、どちらの場合も、初めて試してから十年以上の時が経ちます。

比較的理解されやすそうな方から話をすると、まずポワントについて。
女性バレエダンサーの姿を思い浮かべた時、きっとイメージされるであろうこの靴は、18世紀にイタリア人バレリーナのマリア・タリオーリが浮遊感たっぷりに妖精を演じてみせた時から、バレエに不可欠な小道具となりました。


たとえバレエ公演を一度も見たことが無くとも、やわらかなチュールの衣装をまとったバレリーナが、この靴を履いて四肢を伸ばし、優雅にポーズを取る絵や写真はご覧になったことがあるでしょう。

人がいかにも簡単そうに行うことは全てさにあらずという法則通り、あの美麗な姿は一種の荒行ともいえるもので、ポワントで立つダンサーの全体重は、サテン張りの華奢な靴の、わずか数センチの先端部分プラットフォームによって支えられています。

姿勢や運動に気を使う人にとって、上半身の"引き上げ"はおなじみの理論でしょうが、ポワントを履く際に最も必要とされるのもまた引き上げです。


ポワントを履いた足指は、靴の中で完全に伸びきった状態でつま先のパッドと接しています。その指先で力を込めて床を押し、反対に上半身の抗重力筋を総動員して体重を引き上げるからこそ、ポワントで踊ることが可能になります。

ポワントを履くまでに数年をかけて必要な全身の筋肉と柔軟性を養い、ようやくその靴を手にしてからも、まずは立つだけの練習に終始します。
"ポワントを履いての五分間はバレエシューズでの一時間に匹敵する"という言葉もあるくらい、ポワントは履き手を体力的に消耗させるものでもあります。


プロの一流ダンサーなど、そんな状態で二時間を超える舞台に出ずっぱりになり、32回の連続グランフェッテ回転をこなし、舞台を横切るグランジュッテ大ジャンプを余裕たっぷりに行うのですから、まさに人間離れした業を感じさせます。

余談ながら、かつて私が通っていた格闘技の教室で、多国籍軍出身のインストラクターがこんなことを言っていました。
「バレエダンサーが必要な技を覚えれば、世界一の殺し屋になれる」


こんな物騒な話はさておき、バレエの美しさとその結晶のようなポワントは、かくも過酷な側面を持っています。それは外側からは決して推し量れない労苦です。

それでも、たとえ素人であってもバレエの世界に触れたならば、ポワントを履くことは大きな経験であり醍醐味となるはずです。

重心をコントロールしてあの小さな楕円形のつま先の上で立てた瞬間、床を蹴って飛び上がる、回転する時、大げさでなく世界が変わるからです。

その重力の変化ぶりは、水の中や宇宙空間にも匹敵します。
身体が地面から浮き上がる、あの不思議で鮮烈な感覚は、体験した人でなければ決してわからないものかもしれません。


視界が開け、身体の感覚が変わるという点で、一本歯の高下駄にも共通するものがあります。

私が持っているその下駄は、ごく普通の下駄とは違い、歯は底板の中央に一本だけ、その高さは約11cmです。

お洒落な大人の女性なら、11cmのヒールを楽々と履きこなす人もいらっしゃるかもしれませんが、私はあいにくそんな靴を持ってもいないため、急にそこまで身長が高くなる履きものはポワントしか知りません。

だからそれだけで心が弾む上、ポワントと違って足裏すべてを使い立てるのですから、こんなに楽なことはありません。
足指でしっかりと鼻緒を掴んでさえいれば、専門用語で言うところの"支持基底面"が足裏23センチ分はあるのですから、その上でバランスを取るなど楽なものです。


この下駄を購入したのは古武術にことさら興味を持っていた時期のことで、履くだけで体幹が鍛えられ全身の歪みが整うと知り、すぐさま大阪の有名な下駄屋さんに出かけました。

桐の台に麻素材の白い鼻緒をすげてもらい、裏側に滑り止めと防音のためのパッドもついた、熟練の職人さんによる一品です。

これで立ち歩いて猫背や反り腰になることは不可能ですし、左右の重心の掛かり具合が異なるとふらついて立ってもいられません。
そのため自然と真っ直ぐに立つ習慣が身につきましたし、自分の骨格に合う、無理のない楽な姿勢も学べました。

一本歯の高下駄を履いて街に出る武道家、ハワイのホノルルマラソンを完走する人さえいるほどですが、私がこれを履くのはさすがに家の中だけです。
それでも部屋から部屋への移動の際、歯磨きや読書の間に履くだけで、身体の余計な力みやこわばりが抜け、裸足でいるより心地良さを感じます。


もしも、それならちょっと試してみたい、でも大げさだし転びそうで怖い、と思ったならば、高さ2~3cmほどの、軽量化された一本歯の下駄がおすすめです。
体幹トレーニングに使うアスリートも多く、履いているうちにストレッチができて浮腫むくみが取れたり、自然な筋力トレーニングにつながる効果は高下駄と変わりありません。

履き始めこそいくらか戸惑っても、転倒を避けるため無理せず慣らし、段々と調子もつかめてくると、きっと思わぬ身体の変化や、愉しい心地よさが味わえます。

どちらもの履きものも一生無縁でもどうということはないのですが、一度でも試してみれば、思いもしない可能性が広がるかもしれません。
日常におけるそんなちょっとした変化は良いものですし、たまには足元の小さな冒険はいかがでしょう。



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