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「愛がなければ無に等しい」

今では懐かしくさえ感じられる冷たい冬の空気の中、私たちはカトリック霊園の入り口に立っていました。

もう何年間か病にせっていた友人のお母様が急逝され、慌ただしいような日々の後、ついに納骨の運びとなった為です。

訪れたのは年の暮れで、風の強い午後でした。
幸いにも太陽が照っていたため、私たちはどうにか凍えずにすみました。


その霊園はさる教会の管理下にあり、非常に行き届いた手入れがなされているのは、あたりの様子からすぐに見て取れました。
季節柄どこにも花はなくとも、常緑樹が豊かに茂り、通路の小径は掃き清められ、水場も整然としています。

カトリックの墓地に馴染みのない私には周囲の光景は珍しく、立ち並ぶ様々な形の墓石や、開かれた聖書や天使の彫像、霊園中央の巨大な聖母子像に、いちいち視線を奪われます。

霊園の中にいるのは友人や聖職者を含めた私たち数人だけで、市街地から離れ奥まった場所にあるそこは、鳥の羽ばたきさえも聞こえるほどに静かでした。


お墓周りに芽吹いた雑草を抜き、墓石を洗いといった一連の準備の後、読経と納骨も無事に成し終えました。

「これで全部終わった」

低い声音でつぶやいた友人が、すぐにまた声を上げます。
「これ、何て書いてあるんだろう。
"たとえ私に予言……があって"?
最後は"無に等しい"?」


友人宅のお墓は御影石で、墓石の表面には数行の文言が掘られています。
おそらく何らかの碑銘エピグラフであり、きっと聖句のようなものに違いありません。

ところが濃色の地に細い黒文字の組み合わせは、お世辞にも読み取りやすいとは言えないのです。


もしもキリスト教の神父様か牧師様がいらしたならば、話は簡単だったでしょう。

ですが生憎あいにく、そしていささか複雑なことに、私たちの側に立っておられるのは仏教のお坊様です。
込み入ったいくつかの事情のため、キリスト教徒のお母様は、仏教のお坊様の導きによって別の世へ旅立たれました。


仏様の世界のことならば何でもご存知のお坊様でも、さすがにキリスト教の教えや御言葉には通じていません。

皆が首を傾げつつもっと墓石の側へ身を屈める後ろで、私は控えめに口にします。
「たぶん、これ知ってます。聖書の中の言葉で『コリント人への手紙』の一節です」


驚いた顔で振り向く皆に、私は記憶を辿りつつ話します。
「有名な言葉がありますよね?
『最後に残るものは 
信仰と希望と愛
この三つの中で最も尊きもの
それは愛である』
っていう。その前に置かれた言葉で、正確じゃないですけど
『たとえ私に予言の力があっても
たとえ私が奥義を掴んでいても
あらゆる知識に通じていても
山を動かすほどの信仰を持っていても
愛がなければ無に等しい』
だったと思います」


するとなぜか遠い目つきをしていた友人が、静かに口を開きました。

「それ、母が一番好きだった文章。昔よく声に出して読んでた。どうして今まで忘れてたんだろう」

お母様がこれを選んだことでお人柄が伝わる気がする、などと話しつつ、寒風の中、私たちはその碑銘エピグラフを見つめて立っていました。


後になって、キリスト教徒でもないのに聖書の文章まで暗記しているとは、などと皆は大いに感心してくれたのですが、これにはちょっとした理由があります。

これまでに旧約・新約聖書を一度は通読しているものの、まさかそれだけで、段落すべてを記憶しているはずがありません。

私が『コリント人への手紙』の或る部分だけを暗記していたのは、それがとある世界的作曲家の『欧州統合祭のための協奏曲』という曲の歌詞でもあったからです。


その曲は素晴らしい曲ではあったものの、その作曲家も『欧州統合祭のための協奏曲』も、実はどちらも存在しません。

それはポーランドの映画監督クシシュトフ・キェシロフスキの作品『トリコロール/青の愛』に登場する、架空の人物であり、楽曲だからです。


この映画は1992年公開のため、私はリアルタイムでの上映には間に合いませんでした。
けれど幸運にもリバイバル公開を観ることが出来、誰とも口をききたくないような衝撃の中、パンフレットを買い求め、家まで抱えて帰りました。

そのパンフレットに引用されていたのが、新約聖書『コリント人への手紙』です。

シリーズを全て観るほど『トリコロール』に傾倒した私は、パンフレットも幾度となく手に取り、監督や出演者のインタビュー、映画の詳細な解説のみならず『コリント人への手紙』の一部もまた、自然と復唱するようになりました。


その美しい文章が、友人のお母様の墓石に彫られていたこと、まったく思いもかけない出会い方をしたことは、それこそキェシロフスキ映画にありそうな不思議な符合です。

私は神秘主義者のため、ただの偶然と捨ててしまうより、そこに隠された美しい意図を感じます。


『トリコロール/青の愛』の主人公ジュリーは、人生が根底から揺さぶられるほどの激しい変化の連続にも耐え、最後にようやく新たに生き直すことを決意します。

その彼女の耳に響くのが『欧州統合祭のための協奏曲』であり、愛こそがこの世の至上の価値である、と歌う声によって、底知れぬ苦しみと、自身を縛りつけていた呪縛から放たれていくのです。


ジュリー、友人、そのお母様にとって特別なものである一節は、私にとっても、より貴いものとなりました。

そろそろ母の一回忌が来る、今度お墓参りに行こうと思う。友人にそう告げられて、記憶によみがえった冬の日の話です。




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