ミュージカル『魍魎の匣』と「原作付き作品」
ミュージカル『魍魎の匣』を見た。
前提として、書いている自分のスペックは
・学生時代に原作である百鬼夜行シリーズ(とは呼ばれてなかったが)が立て続けに刊行され、当時夢中になって読んだ世代。
・十数年前に今作主演俳優の初舞台である超有名2.5舞台をきっかけに演劇に触れて以降、大手興業主制作ミュージカルをメインに観劇し続けている。
・2.5舞台は十年以上遠ざかっている。小劇場系はほぼ見ない。
・今回の舞台は演出家氏はわりとお馴染み、主催劇団は初めまして、レミゼ出演組以外のほとんどのキャストが初めまして、劇場も初めて。
・いわゆる狭義のオタク(※余談だが百鬼夜行シリーズは友達の元ジャンル)。
最初は純粋にミュージカルそのものの感想をまとめられたらと思っていたのだが。主演俳優のファンであること、そして原作にそこそこ思い入れがあること、そういうのを合わせると多分フラットな…もっと言えばバイアスのまったくかかっていない感想は多分書けないと思う。なので観劇を機に思ったことをつらつらと。作品やキャストの細かい感想を求めていらっしゃる方はどうぞこの先回れ右で。
『魍魎の匣』がミュージカルになる、好き俳優がどうも主役らしい、それを知ったのは2021年7月中旬くらいだったか。
最初思ったことは「え、主役って誰?」主に関くんの語りで進むけど関くん絶対キャラ違うよね…中禅寺似合いそうだけど彼は主役なんだろうか、ひょっとして久保竣公…? その後ご本人が「中禅寺秋彦をつとめさせていただきます」と呟いたので、あっ魍魎の主役って中禅寺なんだ?と思ったけども。
なにしろ超有名作品、発表の第一報がツイッターのトレンドになった。たどってみるとミュージカル畑の皆さんはおおむね歓迎ムード、対して原作ファンの皆さんは「…ミュージカル…?」「歌って踊る京極堂…」状態。「歌う京極堂とかwww」と小馬鹿にしてるように見えてしまう呟きも多々。
まあ仕方ないよね、そう思った。
自分自身はミュージカル観劇歴がまあまああるので(歴が数十年単位の方が多い世界だが、十年越えたら「まあまあ」と言ってもいいのでは?と勝手に判断)「キャラクターが歌い、場合によっては踊る」世界は馴染み深く、違和感はない。観劇歴の最初が2.5舞台なので「歌とはまったく縁のない漫画・小説・ゲームなどをミュージカル化する」ことにもさほどの抵抗はない。
しかも好き俳優、役作りの繊細さ丁寧さ誠実さには実績と信頼と定評がある。この人なら絶対裏切らない、自分がファンだからというのではなく多分好き俳優の舞台を複数回見たことある人ならそう思ってくださるのではないかと思う。それこそ贔屓目のバイアスだと言われてしまえばごもっともですとしか言いようがないが。
ただ、そんなことはよその界隈の方々にとっては知らぬところで。単純に「原作の京極堂が歌うかどうか」と言われれば、自分だって歌わないでしょうねと答える(※狂骨のあれはともかく)。なので「歌う京極堂」に違和感があったり拒絶反応が出たりする人が多いのは主演俳優のファンとしては寂しいけれど仕方ないことだと思った。ミュージカルに馴染みがなければそもそも「キャラクターが歌で作品世界を表現する」こと自体、想像がつかないだろう。
で。時は流れて11月10日、ミュージカル『魍魎の匣』開幕。
初日、原作と違いオープニングから姿を現した中禅寺は「自分の知っている中禅寺」だった。
自分ははるか昔の映画『姑獲鳥の夏』を公開時に1度見た以外、メディアミックス化された百鬼夜行シリーズに触れたことがない。なので各キャラクターのビジュアルイメージ等はほぼすべて原作から受けたものだ。その自分が見て、目の前にいるのは違和感がまったくない、原作からそのまま抜け出てきたような「親類縁者が死に絶えでもしたかのような仏頂面」「芥川の幽霊」な中禅寺だった。
喋り方も物腰も視線の動かし方も眉の上げ方も手の動かし方もなにもかも、中禅寺以外の何者でもない。驚くほどのシンクロ率。原作に視線をどう動かしたとか手をどう動かしたとか細かく書いてあるわけではない、なのになにげない仕草ひとつひとつに「ああ中禅寺だ」と思ってしまう不思議。
目立つ台詞や歌はもちろんだが、特に座敷に座って和書に目を落としている時、それから1幕最後の木場修に胸ぐらを掴まれたあと衿先まですいっと手を滑らせて合わせを直すところ、あのあたりのなにげなさがものすごく中禅寺っぽいと思った。中禅寺にしては身長が高すぎるという感想を見かけたけれど、自分はほぼ気にならなかった←ただ、思い返すと立ち姿勢で調整はしていたのかな、という気はする。
肝心の「歌う京極堂」に関してだが。自分は先述した通りミュージカルにそこそこ馴染んでいるので、中禅寺が歌うこと自体に違和感は覚えなかった。聞きなれている地の声より低い声色で語られ歌われる中禅寺の長い蘊蓄、歌ならすんなり入ってくるんだなと思った。
周囲にいる百鬼夜行シリーズ未読の人がよく言う「とっつきにくい」の理由として「レンガか鈍器のような分厚さ」と共に挙げられる、「ちょいちょい入ってくる蘊蓄が難しそう」。文章で読むと確かに難解に見えるだろうけども、歌で聞くとするっと理解できる、気がした。そしてのっけから原作未読勢ですら知っているだろう超絶有名な台詞「この世に不思議なことなどなにもない」が中禅寺によって歌われる、掴みはばっちりだったのでは?と思う。
休憩挟んで2時間50分というそこそこ長丁場のうち、後半1時間弱の(体感で)約7割喋って歌っていた中禅寺。特に美馬坂教授との対決はすさまじい気迫だった。「この僕がいうのですよ」前後は回によって中禅寺と美馬坂の身振りが少しずつ違っていたけれど、瞬き一つせず互いの目を見つめて相手をねじ伏せようとする二人は毎回恐ろしくさえ感じた。
原作を読んだ時は感じなかった「あの場にいる美馬坂含めた全員の魍魎おとしを行おうとした中禅寺の中に溜まっていったであろう澱は誰が祓ってくれるのだろう」という哀しみに似た気持ちは、ラストの京極堂の座敷でのわちゃわちゃで「ああ、こうやって祓われていくんだな」と腑に落ちた気がした。
ところで、ミュージカル『魍魎の匣』は言うまでもないが「原作付き作品」だ。
一口に原作付きといっても、
1.「設定もしくはキャラは原作と同じだが内容自体はそこまで沿ってない」いわば『原案もの』(※演出家が同じ『フランケンシュタイン』はここだと思う)
2.「設定もキャラも筋立ても原作と同じだが時代設定や年齢性別などの設定を大幅に変えた」いわば『パラレルもの』
3.「設定もキャラも筋立ても原作と同じだがオリジナルストーリー・オリジナルキャラを入れた」いわば『オリスト(オリキャラ)もの』
4.「設定もキャラも筋立ても原作と同じ、引き算はしても足し算はしていない」いわば『原作準拠もの』
など、様々な形があると思う。
ミュージカル『魍魎の匣』は上記の仕分けでいうなら4の『原作準拠もの』だろう。キャラクターのうち数名の性別が逆転しているが、これは多分主催劇団の男女比率もしくは年齢構成の都合以外の演出上の理由はないと思われるし、性別が変わってもそれによるキャラクター設定や役割の大きな変更などはない。なので、パラレルものとは言いがたい。
性別変更になったキャラクター、一瞬しか出てこない里村医師はともかく、鳥口も増岡弁護士もまったく違和感がなかった。特に鳥口、くるくるよく動く軽くて陽気な感じと歌のうまさがまさに鳥口だったし物語の進行役にぴったりだったと思う。増岡弁護士も「職務に忠実だからこその嫌味感」と榎さんに振り回される感じが増岡弁護士っぽくてとてもよかった。
これはミュージカルに限らず、ストレートプレイでも映像作品でも漫画でもアニメでも、とにかくメディアミックス化されたもの全般に言えることだが。
原作付き作品で一番重視されるべきもの、あるいは一番重視してほしいものがなにかといえば、それは「原作との違和感のなさ」ではないだろうか。そこが非メディアミックスのオリジナル作品と最も違うところであり、どんなに詞や曲がよかろうと超人気有名人を起用しようと「原作のイメージ通りか否か」が最大の評価基準になりやすいという、他にはない特徴だ。
原作を知らない観客(視聴者)はともかく、原作を知っている観客、特に原作に思い入れのある観客は「原作名を名乗るからには原作準拠でやってほしい・原作の世界観やキャラクターを大事にしてほしい」と願う人が大半だと思う。
原作付き作品を多く手掛けている某映画監督(兼演出家)がヒットメイカーでありながら厭う人が多いのも、彼のスタンスが「原作名と設定は借りるが自分の色を前面に出すこと重視・キャラらしさよりも演じる俳優に面白いことをさせて笑いをとる方が大事」としか見えないからではないだろうか。
そして『魍魎の匣』ミュージカル化、の一報で「…ミュージカル…?」「歌って踊る京極堂…」という反応が多かったのも、おそらく原作の世界観やキャラクターとミュージカルが持つ一般的イメージが相容れなさそうだと判断されたからだと思う。まあ結局京極堂は踊らなかったが。
ミュージカルに馴染みがない人が見てどうだったかはわからないが(なにしろ観劇した友人知人全員、趣味がミュージカル観劇なので)、自分から見るとミュージカルとしての『魍魎の匣』は原作との違和感がさほどなかったのではないか、と思う。あの膨大な原作を演劇化するにあたって削られた部分はあるけれど大きな改変はしていない、歌詞も台詞も基本は原作どおり、この演出家氏作品特有の妙に長いアドリブシーン(失礼)も…あるにはあったが今回おおむね許容範囲だった、自分は。
(たまにあったあまりにも時代設定にそぐわない内容や、言われた相手がうまく返せず素に戻ってしまう状況は、物語世界への没入の妨げになるので個人的にはやめてほしかったが。このあたりは見た人それぞれの感覚や今まで見てきた演劇ジャンルにもよるだろう)
最初に聞いた時は全体的に派手さがあまりない分印象に残りにくいかな?と思った楽曲も、千穐楽後の今、脳内でぐるんぐるん回っている。歌詞のインパクトが大きいというのもあるかもしれないが。ただ、口ずさむにはどれも歌詞が不穏当すぎる。笑。「肺とー心臓をー残してー加菜子はーばらばらーにされたー♪」など。普通に歌って大丈夫なの最初の曲と榎さんの自己紹介ソングくらいでは。
上でも触れたが、中禅寺のあの長い蘊蓄の大半を歌にしたというのもよかったと思う。メロディーにのせて語られると単語が後方の壁に現れるのもあって内容がわりとすんなり入ってくる。もしも全部普通に台詞にした場合、中禅寺がひたすら喋っている状態になるので聞く方も結構しんどいのではないだろうか。もっとも、歌っている方は大変だろうが。
そしてこれはあくまでも「自分が個人的に受けた印象」だが。大半のキャラクターが自分が持つ原作から得たキャラクター観から大きく外れていなかった、それが違和感の少なさに最も貢献していると思う。キャラクター観、略してキャラ観は人によって違うので、いや自分のキャラ観とは大分ずれていたなあという方も中にはいらっしゃるだろうし、それは間違いではない。
「大半のキャラクターが」と書いたとおり、自分にも大変正直に申し上げて「これは原作内での描写とキャラ設定がずいぶん違わないか…?」と違和感が強かったキャラクターも中にはいた。キャストにダメ出しをしたいとかそういう意図はなく単なるキャラ観の食い違いだと思いたいので、具体的にどうこうといったところは伏せる。なお、ビジュアルの話ではないのであしからず。
そのキャラ観の食い違いが自分とキャストとの原作の解釈違いなのか演出家(兼脚本家)との解釈違いなのか、そこはわからない。ただ、この作品のこのキャラクターはこういう設定&性格で行こうと演出家がゴーサインを出したのは間違いないと思うので、原作はこうだけど今回はこういう風にしようという意図によるものなのかもしれない。
「原作とは(イメージその他任意の事象が)違うけれど、よかった」と「よかったけれど、原作とは(イメージその他任意の事象が)違う」。この二つは似ているように見えて真逆で、前者は満足、後者は不満の要素が強い。
原作を読んで得るイメージは読者一人一人微妙に違って、全員が同じにはなりえない。そしてイメージとのずれの許容範囲や「何が許せて何が許せないか」というボーダーラインの位置も違う。キャラクターに関しては思い入れや寄せる好意の度合いによっても違うだろう。そもそも二次元を三次元にするのだから、原作と寸分たがわぬ出来にするのはまず不可能だ。なので、原作準拠もので原作と違う部分がどうしてもできてしまう時、見た人に前者の感想を持たせることができればそれは成功なのだと思う。
自分はミュージカル『魍魎の匣』そのもの、そしてキャラクターについて大半はイメージ通りかあるいは「自分のイメージとは少し違うけれど、でもこれはこれでいい」という前者の感想を持った。なので全体的に満足している。ちなみに後者の印象を持った部分もSNSで感想を検索すると「イメージと違うけど、でも~」と前者寄りの肯定的な感想を複数見かけたので、そのあたりはやはり個々の観客の感覚によるものなのだろう。
先に少し触れたが、後方の壁に文字列が現れては消えたり時間軸が目盛りのように動いたりするプロジェクションマッピングは、情報量が多くまた時系列通りに進まないこの作品の理解の助けになったと思う。主に大小の箱を動かすことで場面転換するセットも面白かった。劇評等で見たとおり、交通整理やブラッシュアップが必要なところもあるとは思うが。
前半では中禅寺のことばかり書いてしまったが。加菜子頼子の美少女ペアやちょっとした表情の変化が切ない雨宮、上で書いた鳥口なども素晴らしかった。榎さんの熱帯魚ネタも最初はノリに慣れていなくて驚いたが楽しかった。京極堂の座敷のシーンの空気感が大好きだったし、カテコできゃっきゃしている旧制高校組+木場修も毎回かわいくて和んだ。
以上、まとまりない文章だけれど感想にかえて。
この作品が6日間9公演という短期間、しかも連日満員でもキャパ400人強という小さな劇場での公演だったのは非常に惜しいと思っている。配信もあったし自分もスイッチング版の方をアーカイブ購入して視聴したが、やはり劇場で生で観劇してこその空気感というものはある。木場修フレンズのシーン、スイッチング版では榎さんしか映ってなかったの残念過ぎたし、そもそも配信期間が平日中心の1週間だと長い作品なので一般的な社会人だとなかなか思うように見られない。
こういうご時世なのもあり劇場で見られた人が少なかったのはやはりもったいないので、再編集した映像の再配信と、それから再演及びシリーズ他作品の上演を切に願っている。その時はぜひ、京極堂とその仲間達が続投してくれたらいいなと思っている。