![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/114490299/rectangle_large_type_2_f1074e5115fe91a30dac5d61e4145d43.png?width=800)
『アンという名の少女』から
アンや、バッシュとメアリーがアヴォンリーの人々の生活に受け入れられる過程をみていると、今の時代に多様性を認めようとする動きと重なり、そこにはある程度の時間と両者をつなぐキーパーソンが存在していることに気づく。
受け入れられる、と表現したのは本当は間違いで、どちらかがどちらかを受容するというような捉え方では本当の意味での共存は成し得ない。
多様性を認める=自分とは違う人たちを歓迎することではなく、多様性を認める=自分と違う人たちの文化を知り自ら入っていくことだと思う。
アンという人物がアヴォンリーに来たときマシューとマニラ兄妹が、またバッシュとメアリーのときはギルバートが、アヴォンリーの人たちとの間でそれぞれキーパーソンとなる人がフラットでバリアフリーな立場で彼らと接したことで徐々に変化が広がっていったのだ。
日本は多様性を認める社会を目指しはじめてまだ日が浅いが、実現するには同じくキーパーソンとなる人が小さなコミュニティ毎に必要なのだと感じる。そしてそのときには少なからず反発も起こるし無理解に苦しむこともあると思うがやらなければならない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?