86歳が綴る戦中・戦後(1)1年生になる

私は今86歳ですが、現在戦争体験のある人たちはせいぜい今80歳くらいの人たちまでだと思います。その世代がいなくなればもう誰も体験した人はいなくなるでしょう。

今のうちに書いておかなければ、としきりに最近思うようになりました。

それで覚えている限りの出来事や体験を書いてみようと思い立ちました。
しばらくお付き合いください。


1941年~1942年

1941年4月、6歳になったばかりの私は東京市中野区立新井国民学校へ入学しました。尋常小学校という名称が国民学校と変わって最初の新入生で、私たちは少国民と呼ばれるようになりました。

学校は西武新宿線の「新井薬師」駅のすぐそばにありました。家から歩いて15分か20分くらいだったと思います。

その年の12月8日、日本はアメリカに宣戦を布告しハワイの真珠湾を攻撃、第二次世界大戦が勃発しました。国中が異様な興奮に包まれ、戦時色一色になったのを覚えています。

翌年1942年の2月、英国の植民地だったシンガポールが日本軍の手に落ち、名称も「昭南島」と変わりました。日本中は勝利の喜びに酔い痴れ、私たち少国民も手に手にローソクを灯した提灯を持って祝賀の提灯行列に参加しました。

2か月後、非常時に備えて少しでも自宅に近い学校へ通うようにと、私は2年生からはこれまでとは反対方向にある野方国民学校へ通うこととなりました。

当時の中野はまだまだ田舎で、舗装道路はバス通りなど主な通りだけで、それ以外はまだみんな土の道。雨が降ったり雪解けの後はぬかるんで大変でした。私の家の前の道もそのような細い道。その道沿いに低い土手があって上にはからたちの木が植えられていました。

土手の中は同じような平屋の2軒長屋が並び、その先がバス通り。通りの反対側にはコンクリート製の分厚く背の高い塀が並んでいます。その内側の建物は刑務所。中野刑務所です。現在は取り壊されて「平和の森公園」になっています。その2軒長屋は刑務所職員たちの住む官舎でした。

家の門を出て、土手の中の官舎の間を通り、バス通りを横断して刑務所の正門前を通り抜ける道が野方国民学校へ通う私の通学路でした。


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