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父が呼ばない私の名前

私はひとりっ子だ。ひとりっ子として育った。

でもある時、ひょんなことから腹違いの姉妹がいる事を知った。父の契約している生命保険の書類を見たときだ。知らない名前が記載されており、続柄が「子」となっていた。

「どういう事?」と聞いた。「認知しているから。」と一言だけ返ってきた。30年ほど前のことだ。

それから私は結婚して息子を生んだ。息子が小学生になった頃、自営業だった父の仕事用の車にキズがついたり、運転していて突然道がわからなくなったり、同じ事を繰り返して聞いたりするようになった。父は、50年以上続けた小さな会社を畳み、運転免許証を返納した。何冊目かの10年日記の最後の方は、仕事がほとんどなくなったことや、気力の低下が綴られており切ない気持ちになった。

それから。

介護認定

会話は出来るものの、寝ているか、のべつまくなし質問してくる父と二人暮らしの母の負担を軽くするために、父はデイサービスやショートステイを利用するようになり、母と私は書類の手続きや整理をした。

書類に目を通すのは私の役目で、その中に父の遺言書を見つけた。何となく母には言わず、こっそり持ち帰った。そこにはある一つの不動産を、見たことのない私の姉妹へ相続させると書いてあった。

執行人の名前は母になっていた。

母とその人のことについて話したことは無い。

知らないはずはないのでは、と思うのだが、聞く勇気がない。夫や息子には話しているのだけれど。

あるとき。戸籍謄本が必要で、父の謄本を取ってまた新たな事実を知る。父は若い頃東京で働いていたことがあり、病気になって手術をし、郷里に帰って来たことは聞いていたが、その東京時代、一度結婚していたようだった。

「えええっ?」

これも母は知っているのだろうか。

昔にしてはハイカラで、ダンスホールで知り合い、タンゴが好きだった父と母。

当然だけど、父と母にも子どもだった頃があり、私は人生の一部しか知らない。

母は、子どもの頃の古い写真に手書きのメモを添えて飾っている。

「私を支えているのは、子供時代の私です。」


それから父は、2ヶ月ほど入院することがあってトイレがままならなくなり、グループホームを探して入所した。そして3年近くが経過した。

ケアマネジャーさんはとても優しい人だ。短気で厳しい性格だったはずの父は、認知症になって穏やかになり、ホームの方々とも上手く付き合えているらしい。

今は無邪気でストレスフリーに見える父。母と面会に行くと、私のことは、自分の妹の名前で呼ぶ。

「違うよ。」

一人娘で可愛がられたと思うし、忘れるかな?

ふと頭をよぎる。本当は娘は二人。どんな頻度で会っていたかは知らないけれど、頭のどこかで呼び間違ってはいけない、とセーブしているのだろうか?などと思ってしまう。不思議と腹は立たない。

父母とは、延命治療はしなくていい、と漠然とした事しか話したことはない。何かの時は、治療方針も主に私が決めることになるのだろう。

直接会えなくなって、しばらく経つ。また近くで会える日が来るといいな。

誰もがいつか終わりを迎える。その人の人生を尊重することが出来るといい。

私は私をわからなくなる前に。人生の仕舞い方を側にいる人と話しておこう。

#わたしたちの人生会議



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