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『PERFECT DAYS』と日常の芸術行為


前回に引き続き、三品輝起氏の話。


『波打ちぎわの物を探しに』 三品輝起

読了しました。

『すべての雑貨』『雑貨の終わり』と、2冊にわたって雑貨について語ってきた三品氏。

ちなみに、この2冊は、自分にとってはおそらく、これまで読んできたどの本よりも重要なことが書かれていて、雑貨業界においてもある種の『歴史的マイルストーン』を、その長い道のりに、ドン!と突き立てたと思っているくらいの名著だと思うのだけど、僕の周りでこの歴史的名著を熱く語る人間を、ついぞ知らない。


三品氏の3冊目の著書『波打ちぎわの物を探しに』が出た、ということを『トンガ坂文庫』書店主から知らされ、取り寄せてもらった。

『波打ぎわの物を探しに』 三品輝起 晶文社 2024



前2冊において雑貨について語ってきた三品氏。
タイトルから『雑貨』の文字が消えた3冊目には一体どんなことが書かれていたのか....

僕の頭の言語処理能力が全然追いついて無くて『何も語れない』もしくは『本に書いてある全ての文字をコピーペーストして、まるで自分が書いたかのようにその全てを語り尽くす』のどちらかしかできない。

それでも、あえて言葉にするならば、

コロナ禍で様相が一変した世界と、そらと呼応するように『細分化されていく生活と価値観』の2020年以降と、

『ネット登場以前』の『前期雑貨史』と、
『ネット登場以後』の『後期雑貨史』を、

行ったり来たりしながら、

『雑貨の歴史の地図を事後的に作成する』ことと
『全てのことが切り売りされ、売り手と買い手の垣根が融解していくビジネスシーン』の意味を観察していく

ことだと思う。

かなりスリリングな、まるで一編の長編歴史小説のような『ビジネス書』であり、三品氏の私小説のようだった。

繰り返しになるが、僕は三品氏の著書に書かれていることがクリティカル過ぎて、そこに書かれている一文字一文字全てが、まるで自分が書いたことにしてほしいほどの憧れと嫉妬に満ちている。

繰り返し読みすぎて、身体と思考方法にまで地肉化しすぎて、まるで、自分がこの著書の著者であるかのような錯覚を持っているほどに.....この著者にシンパシーを抱きつつ、到底僕では表現しきれない圧倒的な文章能力高さに、親近感と憧れと悔しさを同時に感じている。

年齢まで同じ、というのがなんとも....

三品氏が彼のその文書力と観察眼にて雑貨界に金字塔を打ち立てたように、

その数百分の1の小さな営みであったとしても、僕は、

カフェという仕事を通して、自分なりの思考と言葉で、この業界に小さくても満足できるような確固たるマイルストーンを刻みたい。

そんなこと、今まで思ったことも考えたこともないのに、そんな変な野望がうまれてきたのは、確実に前2冊の影響だし、3冊目のこの本も、期待を裏切ることのない、憧れと嫉妬が渦巻く名著だった。

三品輝起氏の別の著作『雑貨の終わり』という本から一部を抜粋する。

以下、抜粋。

芸術文化に淫したモラトリアムな若者が自意識の発露として店をひらく、というライフスタイルのはじまりには、七十年代なかごろに全国で六百軒を数えるまでにふくれあがったといわれるジャズ喫茶があるのはたしかだろう。そこから(村上)春樹氏のように物書きに転じる者もいれば、広瀬氏のように多分野で独創的な商いをはじめる才ある者もいた。あくまで集団には属さない孤立した個人プレーヤーとして、彼らはオルタナティブな生きかたをもとめ、大きな資本の濁流から離隔した一本の美しい支川をつくった。しかし時代がくだっていくと、社会をドロップアウトすることや就職しないで生きることの意味はおのずと変わり、反骨のしるしもどこへやら、自己表現としての自営業の譜系もずいぶんお気軽なものになっていった。村上隆氏が「円環が閉じつつある」と書いた意味を、私はジャズ喫茶からはじまったミームが三十年の月日をかけて希釈され、やがて力つきる歴史としてとらえてみたい誘惑にかられてしまう。清らかな支流は、いま泥まみれの資本の大河へと還っていく。つまりそれを、長いながい雑貨化の道程だったと考えてみたいのだ。

『雑貨の終わり』



『芸術文化に淫したモラトリアムな若者』はどの時代にも必ず一定数存在するか、あるいは誰もが人生において必ず経験する成長過程の一つだと思う。

そのモラトリアムを経て、社会生活と一定の”折り合い”や”落とし所”を見つけては、社会人として生活していくのだと思う。
(自分もそうだ)

あるいはその文化芸術を『淫する』というフェーズから抜け出し、社会生活の一部に『取り込み』つつ、うまく社会生活を送っていくのだと思う。

中には文化芸術に淫したモラトリアムから抜けられず、中途半端な状態でいつまでもぶら下がっている人もいるでしょうし、そんな中から一部の人はちゃんと文化芸術の分野の中心で居場所を見つけられる人もいる。



先日、映画『PERFECT DAYS』観てきた。

細かいストーリー説明は端折るが、世間的な評価の声を集めてみると

日常の中にあるちょっとした幸せ
ルーティンの中にある美学

のような声の数々。

そして多いな、と思ったのが、村上春樹作品との共通する部分がある、という考察。

これらにも概ね同意。

村上春樹が自身の作品で描く

善の積み増し
日常生活を営むことの大切さ
誰かの仕事によって誰かの生活が成り立っている
仕事終わりに飲むお酒はうまい
車の中で聞く古い音楽は最高
日常のルーティンにスッと入り込んでくるイレギュラーなもの(ルーティンを邪魔するもの)との対話・対峙

などなど。

しかしまあ、こんなにも『何も起こらない』内容を映画にして、ちゃんと2時間観られる作品に仕上げたものだ、と感心してしまう。


ところで、先日テレビ番組『マツコの知らない世界』にJUJUが出ていて、昭和と令和の『歌謡曲』の最大の違いとして『一曲の文字数』を挙げていた。

昭和の歌より令和の歌の方が一曲の間に使われる歌詞の文字数が多い。

そのことをJUJUは『人が日常で触れる情報量の数に比例しているのでは』と考察していて、なるほど!と思った。

時代と共に、人間が触れる情報量は増えていっている。

映画『PERFECT DAYS』を観て思ったのはそのことだった。

主人公の平山が日常で触れている情報量は、かなり少ない。
かなり少ない情報量でも、人は生きていける。

物語もそれを象徴しているように思った。

平山は、過去にどんな家族関係があり、今に至っているのか、
仕事仲間のタカシは、突然仕事を辞めて、その後どうしているのか、
タカシが狙っていた女性はその後どうなったのか、
公園で踊る老人はなんだったのか

などなど、『あれはどうなったのか』『あれはなんだったのか』が、ほったらかしのまま終わる。

言い換えれば『自分に関与できないことはそれ以上立ち入らない』『適度な距離をとってあえて”無視する”』『その人の人生はその人にしかどうにもならない』という主軸があって、それがブレてない気がした。

自分の中で『抱え込む情報量』を一定に保つ。

平山はそういう生き方を徹底していた。
そういう生き方に憧れる人もいるだろうし、哀れに思う人もいるかもしれない。

なんとなく、平山という男の生活と仕事に通底する生き方が、村上春樹作品の主人公のそれと共通する部分があるのだろうと思う。

情報量を少なめに。
余計なことには干渉しない。
適度に距離をとって無視する。
人は人、自分は自分。

あらゆる人に干渉しない代わりに、あらゆる人に干渉されたくない。

言ってみれば美学かもしれないけど、社会的な接点を持たない孤独な人、とも言える。
(平山の仕事は人知れず行われるので、誰とも会話を交わさずに遂行することができる)

村上春樹がかつて言っていた『デタッチメント』な生き方。

それを肯定するか否定するかは人それぞれだし、『PERFECT DAYS』の平山の生き方を両手を上げて肯定したり称賛するのも、なんか違うと思う。

それでも、この映画はとてもいい映画だったと思う。

平山にとっての社会との接点はミニマムだけど、ちゃんとルーティンを守ることで接点を作ってる。
(◯×ゲームをしたり、写真を撮ったり、銭湯に行ったり、文庫本を買ったり)

接点と情報量をミニマムにして生きる。

自分も、もしかしたら本質的にはこういう生き方なのかも知れない。


さて、ここからは映画『PERFECT DAYS』と、三品氏の著作を同時に考察してみたい。
(正確には三品氏の文章を通しての、映画『PERFECT DAYS』の解釈)


主人公の平山は公共のトイレ掃除を仕事としながら、日常のささやかな行為とルーティンの毎日を送っている。

映画では平山の実家は裕福で社会的にも地位の高い家系であることが断片的に語られている。

おそらく会社の会長、政治家などの有力者。

しかし現在の平山はそんな世界とは無縁の生活を送っていることから、平山は権威的な自分の家系の地盤を継ぐよう期待されたが、本人は拒否、

平山は『文化芸術に淫した』若者として、青春時代を東京で過ごした…..と勝手に想像している。

きっと、寺山修司、横尾忠則、三島由紀夫、土方巽などの芸術行為を間近で感じてきた。

多くの『文化芸術に淫した若者』の多くがそうだったように平山も、文化芸術の世界に熱中しつつも、『そちら側』の人間としては大成することはなく、かつて熱中した文化芸術と、一定の距離を保った生活を送っている。

映画では『文化芸術の分野の中心で活躍する人』は出てこない。

映画には『文化芸術と無縁』か、『文化芸術を社会生活の一部にうまく取り込んだ』人しか出てこない。

強いていうなら、公園でコンテンポラリーダンスを踊る老人、あの人がもしかしたら『文化芸術に淫したモラトリアム』の人かもしれない。

誰にも意識されることなく、主人公の平山にだけしか見えていないかのような老人。

彼はホームレスという究極の『デタッチメント』な生き方と、コンテンポラリーダンスという芸術的行為で生きている。

平山はそんな男を温かく見守るような目で、尊敬の念を込めて、あるいは憧れの念を抱いて見つめている。

それはかつて文化芸術の分野で『そちら側』に傾倒した者(平山)が共感できる芸術行為なのだと思う。



僕が三品輝起氏の著書を読んで救われた気持ちになれたのは、僕の仕事が、『文化芸術に淫したモラトリアムな若者の発露の表現としての店』の経営と『社会生活を社会人として送る』ことをちょうど狭間にあることと、なんとかその両方を成立させることができている、と自覚できたこと、だ。


『文化芸術モラトリアム』のフェーズではなく、ちゃんと社会人としてお金を稼ぎ、社会と接点をつなぎとめたまま、その社会生活の中に確実に文化芸術を取り込む。

それを仕事を通してなんとかかんとか成立させることが『出来ている』という部分に意識的になれたことで、自分の仕事への向き合い方が改めてわかった気がした。
(あ、自分の『仕事』でやるべきことはこういうことなんだ、っていう)

『PERFECT DAYS』という映画でもまた、1人の人間が、『文化芸術のモラトリアム』のフェーズではなく、毎日の仕事と生活の繰り返しを送りながらも、きっちと文化芸術と折り合いをつけながら…..いや、仕事と生活の中にうまく自分なりの文化的な営みと、芸術行為を取り込みながら生きている。

そういう意味において、映画『PERFECT DAYS』は、ささやかな表現行為や芸術行為を含む『カフェを営む者』としては観ておかなければならない映画作品だと思う。

が、それにはちょっと補助線が必要で、三品氏の著書や....例えば寺山修司や横尾忠則や土方巽や柳宗民や村上春樹などの『流れ』を理解した上で、ということだ。

最近は完全に映画『PERFECT DAYS』の余韻にやられてしまっているが、映画自体はもしかしたら40代以上の男性でないと刺さらない内容かとも思う。
(恋愛に夢中な10代の女性が観てもあまり面白くないかもしれません)

ある時、小津安二郎とか山田洋次の映画が面白く思えてくるのと同じで、味わい深い映画だった。

それにしても映画で流れてきたニーナ・シモンの『Feelig good』と、金延幸子の『青い魚』という曲、めっちゃかっこよかったなあ...

特に映画のラストでかかる『Feeling good』、最高にかっこよかった.....
(そして役所広司の『顔』の演技たるや)



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