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「お客のいぬ間に」 #1

#1呼称

カフェの店主をしている。
たまにオーナーという呼ばれ方をするが、どうもしっくりこない。
オーナーというのは、大きな組織や球団にこそ相応しい感じがして、ちっさなカフェの店主には大げさに思える。
築50年の部屋をアパートのオーナーさんから借りているのでなおさらだ。
マスターと呼ばれることもある。
これは、照れ臭い気分半分、嬉しい気分半分である。
喫茶店とかカフェとかバーをやっていればマスターという呼び名はお決まりだから、そのまんまである。
が、マスターという呼び名の意味はマジメに捉えると、「達人、名人、師匠」などである。
初めて入ったカフェの店主をお客さんがまさか「ねえ、お師匠さん!」などと思うわけもないから、あくまで呼称なのである。
言われて「(お、この人はおれを師匠と慕ってくれてるのか…)」などと思ったらとんちきだ。
マスターと呼ばれてさもありなんはヨーダくらいだ。
それにしてもどうしてこんな大仰な呼称になったのか。
ひとつ推測するなら、喫茶店やバーの店主はお客さんの話をふむふむと聞く立ち位置にいる。
そして時には、こうしたらいいんじゃないの、あーしたらいいんじゃないの、とアドバイスめいたことを言ったりもする。

「最近さぁ、隣りの席のミヨちゃんがつれないのよ」
「ふむふむ」
「この前まではおれが消しゴム貸してって言ったら消しゴム貸してくれるしさ、おれがおにぎり一つあげようかって言うとありがとうって嬉しそうに食べるしさ、おれが今度一緒にお酒でも飲みに行こうよって言ったら、いつかぜひ!って言ってくれたのよ」
「ふむふむ」
「だからミヨちゃんに、お酒いつにする?ミヨちゃんの都合がいい時でいいよ、ほんとにおれはいつでもいいんだよ、ねぇいつにする?今日…?明日…?明後日…?来週?再来週?って聞いてるんだけどさ、最近、なんかつれねーのよ」
「ふむふむ」
「ねぇ、聞いてる?」
「ふーーむ」
「ねぇ、おれの話聞いてる?」
「あんた、ちょっとしつこいんじゃないかい」
「ん?おれがしつこい!?…そうか、おれがしつこいのか!そうか、そうだな、おれがしつこいんだな」
「まぁ少し」
「いや、あんた、さすがだよ。あんた名前はなんていうの?」
「下条」
「そうか、シモジョウさんかい。シモジョウさんね。・・いや、おれはこれからあんたのこと、お師匠さんと呼ばせてもらうぜ!」
時は昭和21年、終戦直後の日本である。
それを隣りのテーブルで聞いていたのが進駐軍の通訳トムだった。
「オー、カフェーノテンシュハ、オシショウサン、エイゴデハ、マスターネ!」
こうして、せっかちな客と紛らわしい苗字の店主とうっかりトムによって、カフェーの店主にマスターという大仰な呼称がつけられたのでした(かどうかは知らない)。

だいたい人は、響きのいい名で呼ばれて悪い気はしないものだけど、いかがなものかという呼称もある。
かつてわたしは政治家の人たちと仕事をする機会があったのだが、あの方たちはみな「先生」と呼ばれる。
政党の事務所の中ではあそこで先生、こちらで先生、議員同士がすれ違えば「お、○○先生」「これは、△△先生」と、先生先生の大合唱。森昌子は感涙ものだ。
なぜ議員が先生と呼ばれるようになったのかはグーグル先生に聞けば教えてくれるだろう。まぁ議員さんに陳情するのに、ちょうどいい持ち上げ具合の呼び方ではある。
だからわたしも仕事の際は、教え子でもないのに、いくらかのおべっかを込めつつ「センセー、センセー」と呼んでいた。

わたしは以前、TV-CMなどのディレクターをしていたこともあり、スタッフから「監督」と呼ばれていたことがあった。
撮影や編集などの制作の現場で監督と呼ばれるのは、正直に言うとウレシイ。
なぜなら映画監督への憧れもあって、大学時代は映画研究会で8ミリ映画を作り、その憧れが昂じてTV-CMの制作会社に入ったので、カタチはともあれ、映像制作の現場で監督と呼ばれるのは夢のはしくれが叶ったようでもあり、照れもありつつ、やはり素直に嬉しいものだった。
もっとも監督と呼ばれるのは制作の現場であり、会社に戻れば、さんづけだったり、呼び捨てである。
さっきまで現場で監督と呼ばれて気分よく仕事をしていたのが、デスクに戻った途端に「おい古川、精算早く出せ」と部長に言われてシュンとなってた。
わたしは、2021年、30年間勤めた広告制作会社を早期退職した。
つまり、その時点でディレクター業から身を退いたゆえ、もはや監督と呼ばれることもなくなったのだが、実はいまだに二人の友人から「カントク」と呼ばれている。
一人は大学時代、わたしが映画研究会で自主映画を作っていた時からカントクと呼んでいた同級生で、これはもうあだ名である。
もう一人は、かれこれ20年近く前、わたしが監督をしたCMに出演してもらったことをきっかけに、その後、彼のバンドのミュージックビデオを撮らせてもらったり、わたしの作った映像に音楽をつけてもらってきた音楽家の友人である。
こちらはわたしがディレクター業から離れてからも、半分は実際の「監督」時代の名残り、半分はあだ名としてカントクと呼んでくれている。
2023年秋、わたしがカフェを始めて10か月ほどが経った時、その音楽家のご夫妻とロックバンドのライブに行った時のことである。
ライブが始まる前にドリンクを買うため、ごった返すロビーの中を二人と分かれて行動していたのだが、後ろから誰かに呼ばれた気がして振り向いた。
そしたら、ご夫妻が後ろにいて「やっぱりもうマスターなんだ!」と笑っていた。
聞けば、二人はしばらく前からわたしを見つけて「カントク」と呼んでいたのだが一向に振り向かないので、試しに「マスター」と呼んでみたら振り向いたというのだ。
そういえば、さっきたしかに誰かが「カントク」と言っているのが耳には入っていたのだが、わたしは自分のこととは思っていなかったのである。
これには我ながら、あぁおれはもうマスターと自覚してるんだなぁ…と、なんとも言えぬ感慨を持った。
一抹のいとしさとせつなさと心強さがないまぜになった気持ちだった。
ちなみにそんな出来事の後も、彼はわたしをカントクと呼んでいる。

では、わたしが自分の店で呼ばれて一番しっくりくる呼び名は何かというと、下の名前である。
わたしは古川浩という名前だが、考えてみれば、これまであだ名で呼ばれたり、苗字で呼ばれたり(さん付けや呼び捨てで)してきたが、下の名前で呼ばれるのは家族や親戚くらいなものだった。
ちなみに、わたしが子どもの頃に呼ばれていたあだ名は「ふるちん」である。みんなにそう呼ばれて、ふつうに気に入っていたのだが、小学3年生の学級会であだ名がテーマになり、担任だった女の先生から「古川くん、ふるちんと呼ばれてどんな気持ちですか?」と問われ、「いや、別に…」と答えたのだったが、「みなさん、これからは古川くんをふるちんと呼ぶのは止めましょう」と半ば強制的に決まったのだった。
もっとも、それからもみんなは、わたしをふるちんと呼んでいたが…。
それが50代も半ばになり、カフェを始めてから、「ひろしさん」と呼ばれるのが常になった。
はじめのうちこそ、下の名前をさん付けで呼ばれるのはちょっぴり気取っているような気もしていたが、そのうちに慣れた。
わたしの名前を知ってからも、相変わらずマスターと呼ぶお客さんもいるが、そのお客さんは、どうもわたしをむずがゆくさせたいのではないか
と勘ぐっている。

さて、聞いた話である。
矢沢永吉さんが、ある時、スタッフからやや珍妙な仕事を依頼されたそうだ。
その時、矢沢さんはこう答えたという。
「OK、おれはいいよ。でもYAZAWAはなんて言うかな…?」
やー、シビレルなぁ。
名前が呼称でありブランド名である。
わたしもいつか言ってみたい。
「OK、ひろしはいいよ。でもふるちんはなんて言うかな…?」


あ、お客さんが来た。



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