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第15回 ティトゥス・スプリー 「コロナの前には、みな同じ人間だよ!」

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■考えさせるウィルス
コロナ感染拡大による波紋の広がり方は独特だ。個人的で身近な場面もありながら、とても大きな枠で遠く感じる場面もある。身近な人から距離を取らないといけないけれど、遠くにいる人とは近くに感じる。

1月中旬、上海生まれで、現在はアメリカに住んでいる私の元妻の父が、中国で亡くなった。娘は沖縄から、息子はドイツからお祖父さんの葬式に参加するため、中国へ行くことなった。ちょうどその時、武漢市で流行っている新型ウィルスが世界のニュースに出始めた。武漢市の地域に限定されていた危機が、娘と息子の二人が中国にいる間に、状況がどんどん変わってエスカレートしていった。武漢市から他の中国の大都会へとロックダウンが広がる頃、娘は沖縄に帰ると同時に息子はドイツに戻った。二人が中国で経験したことを聞いて、ニュースよりもシビアな状況が伝わってきた。最後、上海で過ごした数日間の雰囲気は、ユートピアの反対であるディストピアを描くSF映画の世界のようだった。普段中国の都会は賑やかで、どこに行っても人がたくさんいるけれど、広々とした都市空間で孤独な人たちがマスクをかけて、他者と近づかない工夫をしていたという。今、その時の話を思い出すと予言的で、遠くに感じていた出来事が身近になっている。二人の子供は問題無く、元気で帰ってきたのでホッとしていたけれど、たった2ヶ月後、世界のほとんどが同じような状況にシフトしてしまった。

コロナの波は過ぎたと思ったら、ドイツの学校の寮に戻った息子からの着信で、帰って二日目に、先生から「中国から帰ってきたので登校せずに自粛した方がいいんじゃないの?」と言われたそうだ。ドイツの地域健康管理を担当している医者に電話して確認したら、「いいえ、武漢市の訪問がなければ大丈夫よ」と言ってくれた。
その後すぐ、コロナ危機がヨーロッパで急ピッチの広がりを見せる。ドイツでも3月中旬から学校やほとんどの店が閉まった。娘は沖縄からドイツへ出発する際、いつまで中国に滞在したのかと聞かれた。ちょうど2週間前までと言ったら大丈夫だったが、一日ずれて二週間未満の場合は、ドイツへは渡航できないことになっていた。
それから、私の20歳の娘と17歳の息子は、ドイツ、ベルリンのアパートで自粛期間を体験しているが、僕は沖縄から、彼らのベルリンでの生活を離れて見守ることになった。最初、日本でのコロナ危機がほとんど感じられない頃は、ドイツにいる子供達を見守っていることに、なんとも不思議な非同期感があったけれど、次のコロナの波で、日本もほぼ同じ状況になった。

■コロナグローバリゼーション
上に書いたように、現在、私の拡大的な家族の生活は三大陸に広がっている。ドイツ生まれ、北アメリカ育ち、アジアで四半世紀を過ごした私は、国家の意味や国境の必要性をあまり認識していない。どうして人間はこうした国ごとの分け方になったのか、歴史的な流れを見て頭で理解しても、全く実感がない。

こういった風に、ある意味で国籍を失ってしまったような人間は、個人的には決して大きな問題はないと考えている。ただ、国境を越える生き方で面倒なところは色々ある。僕みたいにそういう考えや人生を選んで、自分の選んで住んでいる地域と交われば楽しく過ごせる。だが、自分の地域で戦争や経済的な危機に見舞われている難民はもちろん違う。人間は昔から色々な原因で頻繁に移動をして、それぞれの遺伝子のどこかに遊牧民族的なコードが含まれているように思う。もちろん、言葉や地方の文化による「枠」があったが、今の国境のようなはっきりした線があったわけはない。
人間は動くもので、違う文化や価値観を持っている人間と交わるのは色々な意味で必要である。

現在、グローバリゼーションについて議論するとき、色々と複雑な意味が浮かんでくる。一方にあるのは、グローバルに儲けようとする大企業の悪い例だ。国家よりも経済力が強い企業が、適当に人権を守りながら株主様の祭壇に利益を供するグローバリゼーションである。もう一方には、国家制度の中に仕方なく生まれてくるナショナリズムを超えて、様々な地域や地方における環境運動や人権問題のため戦う草の根の団体が、どんどん世界中で繋がるグローバリゼーションもある。これは、人間であるからこその価値観が広まってできるグローバリゼーションだ。
こうしたネガティヴとポジティブなグローバリゼーションという二面性を超えられない感じが続いている。

20世紀の世界大戦の原因の一つである、国家により構成されたアイデンティティは、とても不思議なものだと思う。国家制度を作り上げた18世紀と19世紀、それまで国家という枠のなかった人間は、急激に自分のアイデンティティと国家を結びつけていく。もちろん自然なプロセスというより、国家制度を推進したヨーロッパ諸国とアメリカで、洗脳と言えるぐらい中央集権的な教育を国民に教えていった。そのプロセスの中では、敵のイメージで他国を見ることが何よりも重要だった。異教徒に敵のイメージを持って戦争してきた人間は、今度は国家による敵のイメージの下で、さらに大きな戦争を起こす。

パンデミックで世界中のニュースを聞いていると、今度はウィルスが敵であり、またウィルスに対して戦争のように戦うという表現がしばしば耳に入る。そういう風に見れば、今やグローバルになった人間に、グローバルスケールで敵となる相手が出てきたことになるのかな。

■ウィルスによる人間感
人類は昔から沢山のパンデミックを体験して、今のような生き物になった。医学が現在のように発展していない頃、繰り返されるパンデミックは、とても大変な結果を生んだ。ペストのパンデミックの時、地域を超えて人間同士の共感が多く生まれたけど、その時代のメディアと人間の動くスピードは遅く、人間の死ぬスピードが早かったため、それほど全世界に広がることはなく、今回のような経験にならなかった。

昔と現在のパンデミックのもう一つの違いは、進化した国際的な経済や情報ネットワークによって、スケールや広がり方がリアルタイムで目に入り、グローバルな出来事になっていることだ。世界大戦もグローバルな出来事であったが、それはキャンプに分かれた人間と人間の集団同士の戦いだった。今回のパンデミックでは、グローバルレベルで人間対ウィルスの戦いになっている。

グローバルパンデミックによって、グローバリゼーションに関する考え方や、人類に共通するアイデンティティが変わるかどうか。人類はグローバルに生きていて、それが好きかどうかは別として、グローバルな意識や協力をしないと、次にもっと致死率の高いウィルスが登場したら、あっという間に滅んでしまう現状が見えてきたように思える。

人間の共通のアイデンティティまで、まだ到達はしていないと思うが、世界中で現在広まっているSocial Distancingは、共通の経験となっている。友達とリアルに繋がれない体験は、疎外感を引き起こしている。おそらく、私の反応は珍しくなくて、多くの人はそういう経験によって落ち着かないし、なにか足りないと感じているのではないか。普段、あまり意識せず感覚的に行っていた人と人の繋がりがなくなって、人間関係を根本的に再考する機会になった。身近な人と感覚的に繋がる重要さを切実に感じる一方で、他方では、遠くにいる人間が同じことを感じ共感しているという実感もある。
そこが戦争の経験とも繋がっていて、恐怖が世界共通の経験となって、20世紀の人間のアイデンティティになったのではないか。

今回のコロナ危機で世界中の人々が経験している共通の感覚をどう受け止めるのか。現在の苦しみが過ぎたとき、20世紀の始まりからどんどん広がっている人間共通の意識が覚醒的な経験となれたら嬉しく思う。ウィルスの前には、みな人間だよ!

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ティトゥス・スプリー(Titus Spree) CV
琉球大学教育学部 美術教育 准教授
ミラノのドムスアカデミーのデザイン科の卒業後、ベルリン芸術大学において建築の修士課程を修了。1996年から東京大学に留学し、2001年まで東京の東にある向島エリアの研究とまち再生活動を行う。2001年から沖縄の琉球大学に在職し、沖縄を拠点に、建築・デザイン・アート・教育を横断的に結びつける国際的な活動を展開している。

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