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視点の話。


※2019年12月28日【お歳暮スレッド】ツイートまとめ

10年下訳修業をしているあいだに、「あ、階段をひとつのぼれたかも」と思ったことが2回だけありました。今日はその1回目のことを書いてみようと思います。

初めて下訳をしたのは2008年冬。『グラーグ57』という作品でした。なぜかその下訳だけは師匠に褒められ、それ以降はダメ出しばかりという時期が数年続きました。毎回同じように必死でやってるのに、どこがいけないのかどうしてもわかりませんでした。

下訳と上訳を一字一句くらべて見直しもしていましたが、いいときもダメなときも、訂正された文字数がそれほど大きくちがうわけではないんですよね。ダメと言われたときでも、表現などはわたしの訳がそのまま残っていることもあって。

もう限界ってことなのかな…と思いはじめた頃、シンジケートで師匠のこんな文章を見かけました。

これを読んだ直後は、正直あまりピンときませんでした。ただ「お正月早々、先生がこれだけ熱心に語っているということは、よほど大切なことなんだな」とだけ思ったのを覚えています。

何年かして時間ができたので、先延ばしにしていたある下訳の見直しをすることにしました。一字一句チェックするのはめんどくさいから、とりあえず読むだけにしよう……と手抜きの見直しです。まず自分の下訳をいくらか読んで、続けて同じ部分の先生の訳を文庫本で読みました。

すると、わたしの訳では遠巻きに眺めているだけだった光景が、先生の訳になったとたん、すっと主人公の眼から見る光景に切り替わったんです。まるでビデオカメラが主人公の眼窩にひゅっと吸い込まれたみたいでした(一人称でした)。

ものすごくびっくりして、その瞬間、「あ、先生はこのことを言ってたのか!」と思いました。

ふいに『グラーグ57』の冒頭の情景が頭に浮かびました。教会の高い窓から陽が射しこんでいて、登場人物のすぐそばまで光が伸びている。あの場面を訳しているとき、わたしはその登場人物のすぐそばで、彼と同じ情景を見ていました。なぜなら、原文をそのまま訳すだけで自然とその情景が見えたから。

つまり、あのとき褒められていたのは、わたしの訳文というよりも、トム・ロブ・スミス氏の筆力だったんですよね……。

そのことに気づくまでに5年もかかりました。一を聞いて十を知るような聡明な人なら、もっと早く気づけたんだろうになぁ。今思い出しても、ほんとトホホです。

視点というのは、映画でいえば、カメラワークみたいなものなんだな──と、そのとき理解しました。

視点に揺らぎがあると、手ぶれしたカメラで撮影した映像みたいに、観客(読者)にとってわかりにくいものになる。カメラはちゃんと固定されているほうがいいし、あんまり頻繁にカットバックがはいると見てる(読んでる)だけで目が回っちゃう。

カメラが切り替わるときには、それを明示する。回想シーンにはいるときには、回想シーンだと提示する。いつ誰がどこから見ている情景なのか、それをつねに意識する。物語の語り手が見ているものと同じ情景を目に浮かべて訳す。それが正しく読者に伝わる表現を選ぶ。その重要性にやっと気づいたのです。

それに気づいてからは、師匠にダメ出しされることはピタリとなくなりました。うまく訳せていなくても、なんとかしようと苦心した跡はちゃんと見えるみたいでした(なんとなくの勘だけで良し悪しを評してたわけじゃなかったのね…と内心思ったことは内緒です)。

視点の問題は、今も試行錯誤の真っ最中。よりわかりやすくなるけど、たとえ視点を意識しなくても、〝まったく意味不明になる〟というわけではありません。だから、ちょっと気がゆるむと、しまった!なんてことはしょっちゅう。それでも塵も積もれば山となる。全体を通して読めば、その差は歴然です。

視点に悩むのは、成り立ちの異なる言語のあいだを行き来する醍醐味でもあるのかもしれませんね。


※画像は、フリー画像素材サイトPixabayさんから meineresterampeさんの写真をお借りしました。

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