”The Decagon House Murders” を読んでみた
【※以下、『十角館の殺人』のネタバレがあります。未読のかたはご注意ください】
2年ほど前に、お恥ずかしながら初めて、新本格ミステリの記念碑的名作、綾辻行人著『十角館の殺人』を読みました。おもしろかったです!!
おそらくすでに語り尽くされていることとは思いますが、個人的に一番「やられた!」と思ったのは、
日本語ネイティブの「相手との関係性による口調の変化」
を実に鮮やかに逆手に取って、読者(というか、わたし)を煙に巻いてくれたところです。
たとえば、理学部三回生のヴァンが医学部四回生のポウと話すときの口調。
具合が悪い(という設定の)せいもありますが、敬語こそ使っていないものの、大学のサークルの先輩に対する遠慮が感じられる口調ですよね。
同じくヴァンとポウの会話。
一方、守須が、同学年の親しい友人である江南と初対面の島田さんと話すときの口調。
この短い場面だけでも、ひとりの人物の2つの口調のパターンが提示されていますね。江南と話す森須は、ふたりの親しさが伝わってくる、かなり積極的な口調。一方、年上の島田さん相手には、大学生らしい礼儀正しい口調です。
角島でヴァンがサシで長く話している相手は先輩のポウが多く、同学年(エラリー、アガサ、カー)との長い会話があまり出てこないのも「やられたポイント」でしょうか。
余談ですが、(島田警部も言ってましたが)「コナン」のニックネームが「ドイル」なら、そりゃ「モリス」のニックネームは「ルブラン」しかないだろうっていう先入観を植えつける手法もお見事です(まんまと騙されました)。
わたしはいつも英語の「主語の単一性」、「当事者の関係性が反映されにくいフラットな描写や会話」に悩まされています。
たとえば
「I go」の訳としては
・俺が行く
・あたしが行く
・僕が行くよ
・わたしが行くわ
・私が行きます
・拙者が参る
・あたちがいくもん
・俺様が行くぜ
などなど、いろんな可能性があります。
「He's coming」にも
・彼が来ます
・あの人がいらっしゃいます
・あの方がお出ましになる
・あの野郎が来やがる
・あいつが来る
・彼が来るの~💞
などなど、「話者の性格や属性」×「Heとの関係性」によって、それこそ無限の組み合わせが成立します。
日本語という多彩なパレットで塗り絵をするみたいに、楽しんで訳せるときも多々ありますが、英語ではきれいに消されている「色」が、日本語にすることでにじみ出てしまって困ることもあります。
たとえば、「(特定されていない)犯人の一人称」が「私」か「俺」か「僕」のちがいだけでも、原書の読者には知らされていない追加の情報を、日本語版読者には与えてしまう。英語の場合は、シンプルに「I」だけ。性別も年齢も性格も手がかりゼロ。無色透明だからです。
つまり、英語なら「あっと驚く場面」で、日本語にしたばっかりに、あっと驚けなくなる可能性も出てくる。
だからといって、日本語から「主語の多様性」や「話者との関係性が反映される描写/口調の変化」を取りのぞくことはできません。
最後まで読んで犯人がわかったあとに、その犯人の言葉として違和感があったらおかしいですからね。なんとか「被害(?)」を最小限に食い止める工夫をするしか道はないわけです。
ですから、『十角館の殺人』が英訳されると聞いて、がぜん興味が湧きました。『十角館の殺人』で効果的に使われている「関係性による口調の変化」を英訳者さんはどのように訳されるのだろう?
基本的には、和訳の場合と同じで、このニュアンスを英語にそのまま置き換えることは残念ながら不可能でしょうけれど、もしかしたら何かヒントがつかめるかもしれない。
また、英語圏で暮らした経験のないわたしにとっては、「日本語原書の英訳版」は、「海外ドラマの字幕・吹替」に次いで、生きた英会話を知る重要なテキストでもあります。
そんなわけで、Yukito Ayatsuji著/Hong-Li Wong訳 ”The Decagon House Murders” を読んでみました!
まずは、「十角」って「デカゴン」って言うのかぁ~っていうところから、スタートです😅
こういう口調は、英語の小説でもよく見かけます。方言の場合も、チンピラ風な場合もありますが…。「英語から受けた印象は、だいたい合ってたんだな」という感じですね。
その後の漁師さんのセリフはこちら。
つまり、場合によっては、ここまで大胆に訳してしまっても大丈夫ということか……( ..)φメモメモ
ちょっと面白かったのが、これ。
日本語では「じいさん」という呼びかけは、相当なご高齢のかたにしか使いませんが、英訳版では、「大学生から見た実年齢差」を重視しているようですね。
さて、複数の人物の会話の場面に、英語版ならではの工夫を発見✨✨
十角館到着直後、アガサに「手伝わないんなら、島の探検でもしてきて」と言われ、キッチンから追い出されたヴァンとポウが、エラリイとルルウとホールで合流した場面。
まず、ヴァンの返事を挿入していること。次に、ポウを会話に参加させていること。
わたしは、なんとなくポウは黙って聞いてるのかと思いましたが、ここはいろんな読み方が可能ですよね。「今、この場にはこの四人がいるんですよ」と明確に提示しているのが英語の小説っぽいなと感じました。一対一の会話ならいざ知らず、複数の人間の会話の場面で「〇〇が言った」をここまで省略できるのは、色のついた日本語の会話ならではで、透明な英語の会話では支えきれないんだろうと思います。
それから、エラリイのセリフのあとの副詞、「archly」。英和辞典には「ちゃめっけたっぷり、ふざけた、抜け目なく」などとあります。Oxford Advanced Learner's Dictionary では、「in a satisfied way because you know more about a situation than other people (ほかの人よりも状況をよくわかっているので満足そうに)」って、なんだかエラリイにぴったりの副詞ですよね! 皮肉の部分はセリフの内容でカバーして、エラリイの芝居がかった口調と性格にスポットを当てた副詞が選ばれたのかなと推測。
さて、二回生の次期編集長ルルウは、基本敬語で話します。そんなルルウがエラリーとヴァンに原稿執筆を依頼する場面。
やはりビジネス英語ばりの丁寧な依頼の表現が使われていますね。
オルツィが殺されたあと、エラリイの外部犯犯行説を聞いたルルウの反応。
切り落とされた手がバスタブから発見されたと聞いて。
動揺したときに言葉がつっかえてしまう、というのが、ルルウカラーになってます。
そして、初日に具合の悪いヴァンが早々に部屋に引っ込んだあと、「カチッと小さな金属音が響いた」のを聞いたカーのセリフ。
「親しい関係なんだから、鍵をかけないのがあたりまえ」という前提は、日本ならではなのでしょう。説明がはいってます。「自意識過剰の女」という語の直訳を使っていないのも、同じ理由でしょうね。「鍵をかけただけで自意識過剰」というたとえが、英語圏の読者にはすぐにピンとこないのかもしれません。
「scaredy-cat =意気地なし」という訳語の選択は、セリフの訳だけでなく、ヴァンをミスディレクションする布石にもなっているのかな……などと妄想してみたり。
ほかにも、エラリイがアガサやルルウに出題するクイズの一部が、英語のクイズに変えられていたり、「英語圏読者」がストーリーを読みすすめやすいようにという工夫もなされています。
やっぱり訳す言語はちがえど、翻訳者の苦労は変わらないんだなぁと少し励まされた気分になりました。ただ、だんだん「もし自分の訳がこんなふうに原文と突き合わせられちゃったら…?」と、ものすごくいたたまれない気持ちになってきたので、具体例を挙げるのは、このあたりでやめておきます😅😅😅 中盤以降は結局、お話に夢中になってしまって、チェックもあまりいれていませんでしたし。
今回、”The Decagon House Murders”を読んでみて感じたのは、日本語と英語のエンタメ小説では、
情報を組み込む場所、組み込みかたが、そもそもちがうのではないか
ということです。
会話だけでも、言語の持つ特性によって、こんなにも情報量が異なるわけですしね。とくにこの作品は、会話の情報量がとてつもなく多いですよね! もちろん話している内容だけでも、充分キャラクターの個性は感じられます。感じられますが、やはり日本語で読むと、それに上乗せした空気感もたしかに伝わってくる。
ヴァンがどんなふうに研究会のメンバーに心の壁を作っているかは、河南に対する口調とのちがいで(読後に)浮き彫りにされます。エラリイにしても、ただのキザな人でもなく、(ルルウも言ってましたが)冷笑ともちがう冷静さ、鷹揚さ(ヴァン曰く愚かさ)というか、そういう人間味のあるところは、あの口調だからこそはっきり感じ取れるのかもしれません。
これが原語で読むということか……と天を仰ぎたくなりました。
わたしはいつも、英語圏のエンタメ小説は日本語のエンタメ小説と比べて「どうしてこんなに書き込みが多いのだろう?」と不思議に思っていました。「できれば日本の小説の愛読者のみなさんにも翻訳小説を楽しんでもらいたい」と考えるとき、そのあたりが大きなハードルになりそうだと感じるからです。英語を日本語にすると約1.5倍になることを考えるとなおさら。
・英語圏では重厚な文体が好まれるから?
・分厚い本のほうがお得感がある(らしい)から?
・多民族国家で、細かい人物描写が必須だから?
・英語は名詞(句)で表現できる内容が多いから?
・日本語読者とはちがって、英語読者は層が厚く多様性があり「言語化しなくても共有できる情報」の量が少ないから?
などなど、頭をひねってみたり。
でも、今回、英語は「必然的に地の文に組み込む情報が多くなる言語」なんだと腑に落ちました。会話に色がつきにくく「薄め」(という表現が適切なのかわかりませんが)になりがちだから、逆に地の文の「濃密さ」で(ネイティブ読者にとって)心地よいバランスが保たれているのかもしれません。
おそらくそれを日本語にして、会話も地の文もどちらも「濃く」してしまったとき、今、わたしが『十角館の殺人』に感じているような「原語の空気感」はきっと失われているんでしょうね。。。
もうそれは避けられない運命なわけですけれども。
物語の持つ根源的な力というのは、そうした言語の壁を越えてもなお、あふれ出る部分にこそ在るものなのかもしれません。
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