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森をデッサンする

あれは忘れもしない、2008年の冬。ゼミが終わったあとで、師匠から初めて下訳を任せると言われたときのこと。

ほぼ一冊分の分量を訳した経験もなくて、思わず尻込みしてしまい、「誤訳をしてしまわないか心配です」ともらしたら

「ふーん。なんで?」
「………………………は???」

というやりとりがありました。


あれから十数年、干支もひと回りした今は、師匠の言わんとした意味も少しはわかるようになりました。

誤訳はゼロにはならないからです。

もうね、ほんとに読み返すたびに、誤訳が見つかるんですよね。読む回数を重ねれば、さすがに個数は減っていきますが、文字通り、読むたびに見つかるんですよ、不思議なほどに……。

ただし、「誤訳発見スキル」は上達しているかもしれません。

訳文を読んでいて、なんかわかりにくいと思ったら、99%は誤訳。
1%は、原書がまちがっていることもある。


誤訳を見つけたら、もちろんギリギリまで直しますが、たぶんもう一度読めば、きっとまた新たに見つかることでしょう。


翻訳という作業は、一本一本、木を描いて、森の絵を描くような作業です。原書から慎重に木を一本ずつ写し取り、丁寧に描く。その永遠(に思える有限)の繰り返し。


そんな翻訳をするうえで、わたしが師匠から学んだ一番の肝は、

「森は森らしく描く」

ということです。

どれだけ一本一本の木を緻密に描けても、その木の群れが「バラバラに並んでいる林」にしか見えなかったら意味がない。

森はちゃんと森に見えるように描くこと。

新緑の森なら瑞々しく。紅葉の森なら色鮮やかに。枯れ木の森なら寒々しく。作品から読み取った色彩で描く。



もちろん、一本一本の木を丁寧に描くことは、とても大切なことです。それが一番大事だと考える翻訳者の方々もいらっしゃるでしょう。ひとつひとつのレンガを精密に作らないと、家は崩れてしまいますから。

とはいえ、そういう方々も、「森が森に見えなくてもいい」と考えているわけではないと思いますし、結局のところ、同じ山をこちら側から登るか、向こう側から登るかというちがいでしかなく、目指す山頂は同じなのだと思います。


ただ、田口組界隈で有名な「意訳から直訳へ」という師匠の言葉には、「まずは森、それから木」という揺るぎない優先順位が示されており、そこにはまずは「デッサン力」を鍛えろというメッセージが込められているとわたしは解釈してきました。

─────と、ここまで書いて、「意訳から直訳へ」についてちゃんと調べようと、久しぶりに『ミステリ翻訳入門』(田口俊樹著 アルク 2002年)をめくってみたら、


 翻訳を始めてまもない方は、どうしてもことばひとつひとつを訳すことに神経が向かいがちですが、ことばより、センテンスを、センテンスよりパラグラフを訳すことを心がけるといいと思います。
 要するに、まずは意訳ができるようになること、ということです。でも、どうか誤解のないように。どんな大きな木も一本一本の木、一枚一枚の葉っぱから成り立っているわけで、そうした一本一本、一枚一枚をないがしろにしていいということではもちろんありません。あくまで翻訳の技量のひとつとして、身につける順番を言っているのです。葉っぱを一枚一枚精巧に描く技術ではなく、森全体を描く技術を身につけるほうがさきだと。そう、意訳とは美術で言えばデッサンのようなものかもしれません。デッサンもせずにいきなり傑作をものしようというのは大胆すぎます。もし意訳する方が大胆なことのように思っておられたら、そこのところはひとつ発想を逆転させ、まずは意訳を──森を見ることを常に忘れないようにしてください。だいたいそのほうが愉しいし、それにきっと上達も早いはずです。(P65)


というくだりを発見。

実は今の今まで、「森のたとえ」は自分で考えたと信じ込んでいて、後輩ちゃんズにドヤ顔で吹聴したことまであるんですが、なんと師匠の受け売りだったんですね😅 は、恥ずかしいぃぃ……。


この本、購入当時より、今のほうが読んでズシリときます。すごくいい翻訳指南書です、今更ですが…。



さて、この「デッサン力」を鍛えると、わからない文やフレーズの意味を推測するときにも役に立ちます。

ジグソーパズルをしているとき、枠から内側に向かってピースをはめていくうちに、「このあたりには〇〇色、〇〇の模様のピースがくるはずだ」という見当がつくようになりますよね。

それと同じように、全文→章→パラグラフと、遠景からズームインするように意味を捉えていくと、この空白部分には「こういう内容がくるんじゃないか」という見当がつきます。

その推測を足がかりにして、辞書やWebで調べると、答が見つかることが多いです。とっても。



よほどの悪文の書き手でないかぎり、著者は思考の流れに沿って綴っているはずですから、その流れを丁寧に追うことで、見当がつきやすくなる。

語学力の足りない人(わたし)が、木だけを凝視してひらめきに頼ると、突拍子もない方向に突進してしまいかねない(前科多々あり)。

まずはわかるところから、ひとつひとつピースをはめていき、そのあと周囲の絵柄を観察し、ある程度見当をつけてから、該当ピースを探すという方法はオススメです。


先日も、「まったく意味がわからない!!!(頭真っ白)」ということがあったのですが、この方法でなんとか解決できました。

大学受験の英語長文問題などにも、使えるんじゃないでしょうか。できれば、受験生になるまえから、「長文を読んだら、まずデッサンする」習慣をつけておくといいかもしれませんね。

翻訳者の🥚や🐥にとって、リーディングがいい修業になるのも、デッサン力の鍛錬になるからかな?




その意味では、短編小説と長編小説では、長編のほうがピースを埋めやすいです。長いから単純に情報量が多い。短編はむずかしい。編み目がぎゅっと詰まったセーターみたいというか、一文一文が重くてお腹にずっしりくるというか。短いからって軽く見てると痛い目に遭うというか……(いろいろトラウマあり)


それから、デッサンする(意訳する)ときには、「著者はここで何を伝えたいのか?」というのを、いつも考えています。まぁ、あたりまえというか、改めて言うほどのことではないかもしれませんが。

①難しい言葉を使ってごちゃごちゃ書いてるけど、結局、著者はここで一番何を言いたいのか? 何を強調したいのか?
②同じ内容を、もし日本語で一から書くとしたら、自分ならどういうふうに書くか?
③そうやって書いた日本語文を、頑張って原文に寄せていく。

これが「意訳から直訳へ」の具体的な作業でしょうか。
③については、わたしは「まだまだだね」…って感じですけれども。

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