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激賞と酷評を呼ぶ怪作


「He knows what he is doing. (彼は自分のしていることを、ちゃんとわかっている)」

という英語の表現がありますが、『災厄の馬』を訳了したときの感想はまさにそれでした。

複雑な構成なのに、時系列の誤りがひとつもなかった(かなりめずらしいです)。著者はこういう作品に仕上げたくて、こういう作品に仕上げたんだろうなと思いました。

でも、お仕事をいただいて、最初に読んだときの感想は

「???」


でした。

このままでは訳せないと思って、再読しました。いつも余裕がなく大急ぎで訳しはじめるので、そんなことをしたのは初めてでした。

ここは誰と誰のセリフ、ここはいつの時点の誰のモノローグ、ここは誰を暗示してる? これは何を表してる?………と原稿に書き込みながら。

それでようやくなんとか作品の全貌が見えてきました。

それでも、意味のわからないところはたくさんありました。著者に質問しようかとも思いましたが、単語自体───たとえば「笑顔」とか───の意味がわからないわけではないし、これだけ緻密に書く人が曖昧に書いているということは「曖昧にしておきたかったんだろう」と思いました。ならば、曖昧なままにしておこうと。


訳者として一番苦労した例の「手紙」についても。

誰が、誰のふりをして、どの時点で、誰に宛てて書いたものなのか?

真相はわからないままです。
ただ、作中の登場人物たちがそれぞれ解釈している内容が、すべて成立する形で訳そうと思ったら、あの形にしかなりませんでした。


そして真相のわからなさも、著者の意図なのだろうと思います。


それが読者のみなさまの好みに合うかどうかはわかりませんし、「小説として」すばらしい出来なのかどうかも、正直よくわかりません。

ただ、別のフィールドで活躍する若い世代の作家(著者はゲーム『No Man's Sky』のシナリオライターです)が、「こういうものが書きたいと思って自覚的に書いた作品」であることはまちがいないだろうと感じています。


本国での反応もさまざまで。

1000件以上のレビューがついて、この均等なバラけかたは、けっこうめずらしい現象ではないかと思います。発売当初からずっと似たような割合を保っているのも興味深いです。

June 2023 UK Amazon


また、もうひとつ翻訳ですごく困ったのは、本文中に突然、1シーンだけ「I」という主語が唐突に出てきたことです。犯人が主人公の獣医をビデオ撮影している場面でした。

これはすごく脚本家らしい表現方法で、おそらく、そのシーンだけは通常のカメラではなく、犯人のカメラを通した「荒い映像」がスクリーン上に映し出されたイメージなのだろうと思いました。

が。英語なら「I」でも犯人の秘匿性が守られるけれど、日本語ではそうはいきません。うわーん、どうしよう??────とウンウン唸ったことをきっかけに、下の記事を書いたのでした。


『災厄の馬』を読んでくださったすべてのみなさまに───お気に召してくださったかたも、そうでなかったかたも、「ふーん」だったかたも───御礼申しあげます。最後のページまでお付き合いくださって、ほんとうにありがとうございました。

われこそはという未読のみなさまは、ぜひチャレンジしていただけたらうれしいです。

もしかしたら、あなたにピタリとはまる1冊かもしれません。

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