語学力の経験値
社会人になった年に初めて受けたTOEICのスコア は730点でした。二回目の受験は十数年前に翻訳の通信教育を始めた頃のことで、そのときは 785点でした。プロはもちろん、翻訳学習者の中でも一番下のレベルだったと思います。「アメリカの大学に留学するには830点くらいは必要とかいうし、英文事務の仕事を探すなら真剣に試験対策しないといけないなぁ」と思ったのを覚えています。ただ、そのあと貿易事務の派遣パートの仕事が見つかって、試験勉強意欲は雲散霧消してしまったのですが。
それ以前にも、英語を使った仕事をしたことはありましたが、いつも「留学経験もないし、読み書きは多少できるけど、英語はほとんど話せないんです(事実)」と自己紹介していました。けれど、その新しい派遣先の社員さんが「前任の派遣さんも留学経験なかったけど、カフェで英会話を習って自分でいろいろ勉強していたよ」と教えてくれたとき、頭をガンと殴られたようなショックを受けました。
留学経験がないことを言い訳にしてちゃダメだ!
───というわけで、さっそく前任者さんの真似をして「カフェで英会話を習う」形式の学校に登録し、英会話をはじめました。とはいえ、会話を習うはずが、いつのまにか「翻訳教材のわからないところを教えてもらう授業」となってしまい(自分でプランを立てられたので)、相も変わらず英語は話せないままなのですが……。ともかくそれ以来、ずっと英会話をつづけ、今も四代目の先生に習っています。
最初のうちは、わからないことだらけで、片っ端から質問しまくっていたので、「先生がいるあいだはいいけど、先生がいなくなったとたん、ガクンと訳文の質が落ちてしまうのでは?」と不安だったのですが、しばらく続けるうちに、語学力とはそういうものではないということがわかってきました。
考えてみればあたりまえのことなんですが、解けない数学の設問の答を丸写しさせてもらうのとはちがって、語学では教えてもらったことが経験値として蓄積されていくんですよね。
そのことを強く実感した例をあげてみます。下訳の仕事をした『SHANTARAM』(Gregory David Roberts著)という作品の一節です。
この中の ”with a bit of flesh to spare” というのがわからないというか、どうにもピンとこなかったんです。
Oxford Advanced Learner's Dictionary によれば、「to spare」は「if you have time, money, etc. to spare, you have more than you need」 つまり、「余分に持ってる」というような意味になります。
「タクシーをいっぱいにしてさらにちょっと肉が余り、窓から(肉が)突き出るくらい大きいやつらだった」
ざっくり訳すとそんな感じでしょうか。このセリフの主は「どんだけでかいやつらだったか」を説明しているわけです。そこまではわかるけれど、 ”with a bit of flesh to spare” のところが、どうしてもピンとこない。
当時の三代目の英会話の先生が、何度もかみ砕いて説明してくれた結果、日本語では、人間の体を「頭・胴・四肢」とパーツでとらえるのに対して、英語では「体積」という全体でとらえるらしいということが、ようやく理解できました。日本語なら「でかいやつらで腕がはみ出ていた」と書くようなところを、英語では「(どこのとはいわないが体のどこかの)肉がはみ出ていた」と表現しているのですね。
このときの「なるほど!」という理解は、翻訳ゼミの課題文を訳すときに役に立ちました。以下は『The Next Nice Day』(S. J. Rozan著)という短編の一節です。
主人公の主婦は「昼ドラを見ることもあるけど、昼間っからテレビのまえに座ってアーモンドジョイを食べながら見てると太るし、うんざり」なんだけれど、「ジョージ(夫)は主人公の体重が増えたことを気にしているわけではない。なにしろ“More of you to love,”と言うくらいで」というような内容です。
この “More of you to love,” を見たときに、「出たぞ、体積だ!」とピンときました。前回さんざん悩んだかいがありましたね。
これは、さらにたくさんの君を愛せる。つまり、お腹にぜい肉がついた分、「僕が愛する君」の総量(体重)が増えてうれしい。日本語的発想に変換すると「君のならぜい肉だって愛しいよ」とかなんとか言うところでしょうか(ちょっと引いちゃいますね……)。
日本語ならば増加した(あるいははみ出た)「部分」に注目するけれど、英語の場合は増加した(あるいははみ出た)部分を含めた「全体」に注目して表現するということですね。
とまあ、こんなふうに、語学というのは一度教えてもらったことが、別の場合にも使える知識として蓄積されていくらしい。そう気づいてからは、「どんどん訊くべし。それが自分の語学力の経験値を増やすことになる」という方針でやっています。
もうひとつ気づけてよかったのは、「語学力と解釈力はイコールではない」ということです。四人のネイティブの先生は教養も語学力もある方たちでしたが、小説の解釈となると説得力にバラツキがありました。二代目の先生が突出して解釈力のある人だったんですね。そのせいで一時期「ネイティブ至上主義」に陥りかけましたが、三代目の先生がその幻想をしっかり砕いてくれて感謝しています。
まあ、こちらもよく考えたらあたりまえですよね。渋谷の駅前に行って、夏目漱石なり村上春樹なりの小説を見せて、「ここはどういう意味ですか?」と日本語ネイティブに聞いてまわったとしても、全員から同じ答が返ってくるわけではないでしょうから。
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