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『体育教師を志す若者たちへ』後記編1        教師を志す礎 

 前回で私の著作『体育教師を志す若者たちへ』の全文紹介が終わりました。これからは「後記編」として、これまで書き切れなかったことや最近の話題について書いていこうと思います。

 今回お話するのは、当初『体育教師を志す若者たちへ』の冒頭に書こうと思っていた内容で、私が体育教師を志すようになったきっかけについてです。現在教職に就かれている先生方全てがそれぞれ様々な深い思いを持って教職を志してきたはずで、そのことを考えると冒頭から私個人のことを書くのもどうかという思いに至り、機会があればということで後回しにすることにしました。
 全ての投稿を終えた今、ここではまず一番に私の教職への道について書かせていただきます。私が体育系の大学への進学を決めたのは深い思いがあった訳ではありません。父親が教師をしていたし、大学でも競技生活を続けたい、教師になるなら体育しかないだろうという思いで受験し、何とか合格することができました。そして大学3年生の時には長野国体(1978年)が控えていました。県の強化選手として練習を重ね、本番に臨みました。現在の陸上競技では8位までが入賞ですが、当時の入賞は6位まで。私は6位の選手と同記録で7位。惜しくも入賞はできませんでしたが、自己ベストを出し、一応それなりの役割は果たせたかなという感じでした。 

ある事件

 この時、私は二十歳でした。国体を終えてホッとしていた12月。大学で大変なことが起こりました。「体育系大学生、1票2000円で買収」。全国ニュースになったので記憶にある方もおられると思います。大学の所在地である村の村議会議員選挙で、体育系の学生たちが大量に買収されて投票に行ったのです。私も村に住民票を移していました。二十歳になって初めての選挙権行使です。当時はまだ立合演説会があった時代で、私は初めての清き一票を誰に入れようかと立合演説会にも出かけ、候補者たちの話を聞いていました。政治のことはよく分からなかったけれど、自分なりに真面目に考えて投票していました。
 ところがしばらくして、私の同僚たちが何人も買収されたことが大々的に報道されたのです。これには驚きとともに怒りがこみ上げてきました。私の「怒り」の理由は、この事件が日々の学生たちの生活の乱れ、迷惑行為等の延長線上にあると考えたからです。授業中に騒ぐ、欠席者の代返をする、学生宿舎で酒を飲めば大声で騒ぐ、地域とのつながりが薄い新天地で好き勝手に振る舞う一部の学生たちの行動に私は不満を感じていました。そして私はこの事件を学生としての生活のあり方につなげて考え、仲間たちと様々な議論をしました。

 そういう大学だった

 しかしその議論の中で私の知らなかった別の問題が浮かび上がってきました。この大学は「〇〇大学法案」として国会で強行採決されてできた政府の肝いりの大学であること。大学には自治会を作らせず、学生たちは政治のことは考えずに勉強・研究・スポーツをしていればよいという政策から生まれた大学であることを知ったのです。「3S政策」、つまりスポーツ、スクリーン、セックスの3Sを用いて大衆の関心を政治に向けさせないようにするという言葉も初めて知りました。私自身は買収に巻き込まれなかったものの、周りの仲間たちと同様にスポーツだけ真面目にやっていればよいという政策の中にどっぷりと漬かっていたことに気づきました。

 ここから私の大学生としての本当の勉強のやり直しが始まりました。勉強すればするほど、運動部の古い体質、従順なスポーツマン、競技成績で優遇されていく入試制度や社会にも嫌気がさすようになっていきました。部をやめようかとも思いましたが、卒業まで1年足らず、コーチング専攻の卒論も書き始めていました。長野の地元大学の教授からは、大学院を出れば後釜として受け入れたいという内々の話も伝わってきていました。
 しかし、このまま競技の世界に流されてはいけない。私は決意しました。卒論は仕方なくコーチング専攻で書く。そして大学院へ進むことを決めましたが、長野の地元大学からの勧誘は断りました。すぐに長野へ帰って教員になるには勉強不足であり、大学院(修士)で学生生活のやり直しを決意したのです。競技やコーチング関係の研究からは足を洗う。大学院へ行く目的は、教育や体育の勉強をやりなおして長野の中学校の体育教師になるためです。高校へ行ったら部活指導から抜けられなくなることは分かっていたので中学校にしました。 

3年計画で

 大学院の修士課程は2年間です。しかし、専攻や研究室を変え、修士論文を書いて長野の採用試験を一発でパスするには2年間では無理だと考えました。そこで最初から3年計画で新しい研究室での修論と採用試験の勉強を平行して進めることにしました。競技の世界から離れて飛び込んだのは生理学の研究室でした。博士課程の先生でしたが居候させていただきました。
 大学院はさすがに勉強したい人たちの集まりでした。授業を終えて夕方から自主的な勉強会・読書会がいろいろありました。私は自分の生理学の研究室での勉強会、人類学の先生の研究室での勉強会、保健の先生の研究室での教育学の勉強会、そして志を同じくする院生仲間が独自に作った勉強会などに参加しました。ここで現在でも続いている全国組織の学校体育研究同志会に入会しました。当時私が勉強していた内容を整理してみると、教育学の勉強、体育学の勉強、研究室での修論に関わる勉強、そして教員採用試験対策でした。

「表」の勉強と「裏」の勉強

 教員採用試験対策のために、体制側の教育学・憲法・教育基本法等の解釈と、民主的な教育学・憲法・教育基本法等の解釈を分けて比較しながら勉強していきました。教員採用試験対策は前者、そして自分が教員になったらやろうと考えている教育の礎となるのは後者です。アンダーの学生時代に一般教養の講義で学んだ憲法解釈は前者でした。表(前者)の勉強と裏(後者)の勉強の両方を意識しながら、裏の勉強に力を入れて教師になる土台を作っていきました。
 当時私が学んだ教育基本法は、その後2006年、第1次安倍内閣で改悪されてしまいました。「改悪」という言葉を使いたくなるのは、戦後にできた民主的な教育基本法の精神が解釈の仕方の問題だけでなく、条文として変えられてしまったからです。考えてみれば今の若い先生方は改悪された教育基本法を学んで教員採用試験をパスしてきています。私は旧教育基本法世代で、その精神を私は仕方なく「裏」として学びましたが、私と同世代で自治会のある民主的な多くの大学を出て教員になった先生方はそれを「表」として大学で学んで教員になっていると思います。旧教育基本法世代の私たちと、最近の若い先生方のとのギャップを最近は強く感じています。
 旧教育基本法の第十条「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。」の理解は非常に重要です。 
 この条文があるからこそ、学習指導要領の拘束性や道徳の教科化の問題、全国学力テスト実施の違法性が理解できるのです。私の39年間の教員人生、体育実践や研究の考え方はこの旧教育基本法、そして現行憲法の民主的・平和的解釈によって支えられてきたように思います。大学院の3年間の中で読んだ教育学の本の内容は今でも私の授業研究・実践の考え方として生きています。ところが今の若い先生方は学習指導要領に忠実な授業をするのが当たり前であり、道徳の教科書ができて道徳の授業がやりやすくなったと言い、そして全国学力テストで点数を上げることに何も問題を感じていない。地教委で働いている人たちも現在は改悪された教育基本法の下で仕事をしており、やはり以前の地教委の方たちとの違いを感じます。戦後の民主教育の歴史をもう一度学び直してほしいと思います。

教員生活がスタート

 こうした3年間を大学院生としてすごし、無事修論も書き上げて、長野県の教員採用試験にも合格できました。この時、私はすでに中学校の教員になったらどんな体育の授業を進めるのか、ある程度の構想ができてきていました。そして希望を持って新任地での教員生活がスタートしました。冬は雪深く、自然に恵まれた町の中学校です。当時の職員室での印刷はまだガリ版刷りでした。職場にはそのガリ版で毎日のように学級通信を出す先輩青年教師がいたり、ベテランの先生の中には地域の戦争遺跡を発掘して本を出している先生もいました。ここへ来て良かったと思いました。
 しかし、授業は理想通りにはいかないものです。当時は非行の嵐が吹き荒れていた時代で、能重真作先生の『ブリキの勲章』が話題になった頃です。そして残念なことにまだ教師の体罰は公的に問題視されず、私の職場でも横行していました。ガラスを割った生徒が職員室へ呼ばれ、教頭が多くの職員が見ている前で堂々と平手打ちをしていました。入学して間もない1年生のうちに徹底的に押さえて躾けるという風潮がありました。ある年にはその仕返しに先生の車のガラスが割られるという事件も発生していました。 
 その学年の生徒たちが3年生になった時、教師と生徒の力関係が逆転しました。体罰に対抗する校内暴力です。以前職員室で平手打ちをしていた教頭は、同じその席で全職員を前に、「体罰はやめましょう」と言い始めました。そこからが学校再生のスタートだったように思います。そんな時代です。体罰をせず、かといって生徒の心にしみる指導などできない新米教師の私が、いくら理想を掲げて授業に挑んでも上手くいかないのは当然でした。 

初めての研究授業で

 私の力量の無さを痛感した研究授業のことを今でもはっきり覚えています。教師になって2年目に2年生のマット運動で行いました。まだ男女別クラスの体育授業の時代で、男子のクラスを持ちました。マット運動ではこう指導すればみんなが上手くなれる、そのことをある程度分かってきていた私でしたが、日々の授業では生徒たちは思い通りに動いてくれません。マットの上ではプロレスごっこが始まる。あるいは遊び疲れてマットの上に寝転がっていて動かない。そんな状態が研究授業の直前まで続いていました。
 そして迎えた本番。たくさんの先生方が見守る中で、生徒たちは生まれ変わったように集中して汗びっしょりになって練習に取り組みました。まさに「関心・意欲・態度」Aの評価です。指導主事の先生からは指導上の課題をいくつか指摘されたものの、「問題を抱えた生徒たちがこれだけ一生懸命取り組んだのは素晴らしい」と褒められました。私も、これで生徒たちは変わるのでは、と期待しました。
 しかし翌日の授業になると生徒たちは、「昨日は動きすぎて疲れた」と、再びマットの上でごろごろしたり、プロレスごっこです。結局12時間単元の中でまともに授業ができたのは研究授業の1時間だけでした。私は力の無さを痛感するとともに、研究授業では自分の授業改善はできない、教師1人で生徒たちと対峙し、彼らの心を動かせる指導力量をつけなければダメだと思いました。教師1人で学級集団や生徒たちひとり1人とどう関わりながら授業を進めたのか、それを実践レポートという形で書いていき、単元が終了したところで様々な先生方に検討していただくという研究スタイルをとるようになりました。これまでたんさんの実践レポートを書いてきましたが、私の実践レポートは私の実践の反省文です。

 現在でも私自身、授業はけっして上手な方だとは思っていません。上手くいかないから様々な工夫や準備をするのだし、それを参考にして別の先生がやってみたら私よりもっといい授業ができるのではないかと思います。そんなことを考えながら実践の紹介をしてきました。今回の『体育教師を志す若者たちへ』の著作も、回り道してようやく分かってきたことを若い人たちに伝えることで、私の経験してきた教訓を生かしてほしいと考えるからです。 

                 ・・・・今回はここまでにします。

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