欲なき者(生存欲を含む)

私には欲がない

選択・所持・処分が面倒なので、
物欲がない。
物欲がない上に、出世欲もないので
金銭欲もない。

空腹という生理現象を自覚するまで、
食事関連に時間を割きたくない
と心底思うので、食欲もない。

生命力というか、生存欲がないのだ。

では、なぜ今ここにいるのかと問われれば、
母親に生まれた(受け身の意)からだ。


欲なきもの、との遭遇

某TV番組で、セイウチの赤ちゃんを見た。
生後の彼(彼女)は、
すぐ目の前で溢れ出る母乳を飲むのに
40時間近くかけ、
結局、生きることは出来なかった。

セイウチの正常の出産を知らないが、
その時、ふと思った。

生後、なかなか母乳まで
たどり着けなかった彼(彼女)は、
きっと生存欲が弱かったのだ、と。

空腹で、快適とは程遠い状態の中、
母乳まで身を乗り出すまでに至る
精神的、かつ、物理的な力が欠けていた。

私は一方的に、彼(彼女)に共感した。

そして、
自然界に、生存欲がない生き物は、いる。
生存欲を凌駕する何かは、存在する。
ただ、生き残ることが出来ないので、
その存在は、認識されにくい。

そう確信し、心の底から安堵した。

「生存欲がある」
と考えるのは、
生存者バイアスだ。


私が(一方的に)生を受けた社会は、
死ぬハードルが、死ぬほど高かった。
だから、私は今、こうして生きている。

それが、幸運なのか、そうでないかは、
個人の解釈によるだろう。


死ではなく「湯」に生き当たる

銭湯で「湯あたり」したことがある。

どんなに深く息を吸っても息苦しく、
脳の半分が痺れていくような感覚がした。
身体に力が入らない。
吐き気のような不快感もあった気がする。

まぶたさえ重く感じ、
視界が半分くらいになった。

肩で、全身で、全力で、
呼吸をしている感覚だけが認識できた。

しばらくすると、
見えるものの解像度が下がり、
苦しくて仕方がなかった感覚が薄れていく。

そうなると、
感覚がない状態が、むしろ心地よく感じる。

この感覚の先に、
死があるのであれば、
決して悪くない。

本当に、そう思った。

(残念ながら)
1時間もかからずに、意識は正常に戻った。
銭湯内の昼寝スペースで、数時間横になり、
その後、普通に自転車に乗って帰宅した。


私には、生存欲がない

生き物の根源である欲は、
生命の危機に陥った時、必ず現れる。

残念ながら、私にはそう思えない。

「湯あたり」は生命の危機ではないが、
意識の混濁を経験する初めての体験であり、
私の中での「意識の混濁」は、
まさに「臨死体験」に相当するものだった。


あのまま死んでいたら、と考える。

入浴後なので、遺体洗浄は最低限で済む。
全裸で発見されるのは少々恥ずかしいが、
そもそも映える遺体など、レアだ。

幸運なことに、
私は、この世に未練がない。

あの時、
私の人生が終わったとしても、
何ら問題なかった。

今でも本気でそう思うのだ。
これも、生存欲がない故だろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?