No More ユーモア, No Life

◼️ユーモアが欲しい

願わくば、
ユーモア(やウィット)を持つ人間に
私は、なりたい。

ユーモアが、
知性や人間的な魅力を示すもの
だからではない。

もちろん、知性も人間的な魅力も、欲しい。
(無いより、あった方が断然いい)

だが、それ以上に、
ユーモアがもたらす自己暗示的な効果が、
私には必要なのだ。

ユーモアの意志をもつことは、苦悩を俯瞰し、多面的に捉え、相対化することを前提とする。

出典は、いつかどこかで読んだ、何かの本より。
感銘を受ける言葉とは「どこの誰が、いつ、どこで
言ったか」ではなく、「何を言ったか」という、
その内容に関して価値を見出すものではないか。
出典を思い出せない、ただの言い訳だが…。



ユーモアやジョークを口にすることは、
過酷な状況下において、

自己の人間性を保つ、

一時避難所を作るような行為

だと、私は思っている。


映画などで、
精神的にも肉体的にも限界の中、
戦場最前線の兵士が、
不謹慎非常識ジョークを口にするのは、
そのためである。

笑い(ユーモア)には、
緊張を緩和する効果もある。

気が狂わんばかりの過酷な状況だからこそ、
人は(無意識に)人間性を保とう
必死になるのである。


ジョークを、ユーモアを、軽口を、
口に出来なくなる。

という状況は、
視野が狭められ、思考が固まり、
選択肢が目に入らない、
極めて危険な精神状態だ。

現実を半目で直視しつつ、
常に他の可能性を虎視眈々と
考えたり、考えなかったり、

人生、
不真面目ふざけているくらいが
ちょうどいい。

と、私は思っている。


◼️希望は欲しくない

パンドラの箱に
最後まで残るものとは〈希望〉らしい。

人生という入れ物から
希望が失われたとしても、
私はいっこうに構わない。

私の人生において、希望なんてものは、
今やほとんど残っていないし、
(もともと無かったのかもしれない)
そもそも、希望なんてものは要らない。
(希望は、絶望の元凶だ)


限りなく薄められた希望の中、
私が今、何となく生きていられるのは、

私の人生、という入れ物の隅に、
誰かの(ブラック)ユーモアか、
私のユーモアを好む意志
が、
こびりついているからだ。

と、私は思うのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?