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フィルモア通信 New York Seiji&Huberts going going gone.

セイジ、ニューヨークタイムス、ぼくらの手

 セイジさんは日本の大企業から在米駐在としてニューヨークにやってきた。そして何年か後アメリカ永住権を取得して会社を辞め、四十歳を前にして料理の道に入った。当時アメリカでは最高峰の料理学校、ニューヨークアップステートにあるCULINALY INSTITUTE OF AMERICA 通称CIAは授業料も高く基本的に全寮制なので除隊補助でもないと自力でやるしかない普通の若者にはハードルの高い学校だった。

 そのカリキュラムは実技も学科も幅広く教師たちも教育に経験を積んだ教授たちが揃っていた。大学卒業資格があたえられるので食についての実技だけでなくフランスやアメリカの食料についての歴史や統計も学ぶことができた。

 セイジさんは東京の大学でケインズ経済学を学び大企業のアメリカ事業の中枢を担うエリートだったが日本企業と社会に馴染まず、ニューヨークに自力で知古を増やし自分のビジネスとして貿易業をはじめるつもりだったのがどういうわけかフランス料理のオーナーシェフへの道を選んだ。

 それは彼の年齢を考えると無謀な挑戦とまわりの日本人は言ったらしいがアメリカ人の友人にそんなことを言う人はいなかったしぼくは初めて会った時からセイジさんが年上の人とは気がついたがそんなことは問題じゃなかった。

 ヒューバーツのキッチンに現れ、レンと面談のあとぼくに挨拶した。セイジという名前を聞いて日系人かと思い日本語わかるか、と聞くと日本語の方が得意ですよ、と言ったのでびっくりした。ガッチリした体格とよく似合う口ひげが野武士のようだった。

 その外見だけでなくセイジさんは武士のようだった。保証された一流の日本企業を辞め、何の経験も無い料理の世界へシェフとして身を立てているセイジさんといっしょに働いてみると、彼は料理と学問の深い教養をぼくらとおなじシェフコートに包んで汗だくで猛烈に働いた。

 その頃のヒューバーツはニーナが辞めてロミーもいなくなりピーターもいないシェフ不在のキッチンにオーナーシェフではあるけれどシェフの仕事自体はしないレンが」ぼくやフレディにレンの考えたメニューを作らせていた。

 フレディはシェフとしては経験不足で、ぼくにはフランス料理の知識と経験が圧倒的に不足していた。そこにレンに請われてやってきたのがセイジさんだった。セイジさんはCIAを優秀な成績で卒業して学校の副校長から推薦されてルイジアナのKポール・レストランにラインクックとして働いた。

 Kポールのオーナーシェフ、ポール・プルードムはタイム誌に料理人として初めて表紙に載ったすでに歴史的なアメリカを代表するシェフだった。ポールのクリオールをアレンジした新しいアメリカ料理は料理界の新たな希望だった。彼のレシピ、パンブラックエンド・レッドフィッシュは料理に興味がある人なら誰でも聞いた事のある一皿だった、

 それはサミットで各国首脳が味わう前からそうだった。そのころでもメキシコ湾のレッドフィッシュはあちこちのレストランがポールの真似をするので、枯渇の危機になっていた。

 パンブラックエンとするにはケージョンスパイスと言われるクリオール独特の香辛料と香草のコンコクションを作らなければならない。ポールのオリジナルのそれを受け継いだセイジさんはパンブラックエンドサーモンでどうかとぼくに言ってきた。そして大根おろしをつけたら美味しい、これを乗せよう、新メニューに乗せようという事になった.

 その頃のヒューバーツレストランの経営は厳しかった。ぼくが初めて店に来てから、ワーキングビザをもらって二年以上経っていた。レストランに出すアメリカ料理のメニューの開発は行き詰っていた。レンはセイジさんとぼくに新しいメニューを作るように言った。

 レンの望みはアメリカの伝統料理と新鮮な魚介を使ったニューヨークの特色を生かした日本やアジアの料理の融合だった。ニューヨークタイムスのフードレヴューは長くミミ・シェラトン女氏が執筆していて最高の四つ星は伝説的なフレンチレストラン、ル・テスなど数件であとは高級日本料理の初花だけだった。レンとぼくらは先ずはアメリカ料理のレストランとしての三ツ星獲得を目指すことにした。
 
 ちょうどその頃、ヒューバーツレストランのヘッドウェイターのジョシュア・ウェッソンがパリで行われた世界ワインソムリエ・コンクールで優勝した。フランス人以外でアメリカ人としても初めての優勝者だった。そして彼はシェラトン女史の後任となった、ブライアン・ミラー氏の音楽仲間だった。いまや全米のワイン関係者から注目を浴びメディアからインタヴューを受けるジョシュアがニューヨークタイムスのレヴューをヒューバーツに引っ張ってくるのは確実だった。

 問題はミラー氏が非常に辛口で時に非情とも思えるような辛辣なレヴューをレストランに下すことだった。若く野心もあるミラー氏はシェラトン女史を引き継いだ後、今までシェラトン女史が評価したフレンチレストランや新しい野心的なレストランにも厳しい評価を下していた。彼のレストランに対する評価は料理のコンセプト、サービスのポリシーそしてアンビエンスの親しみやすさと美的価値だった。

 ぼくらは毎日話し合った、そして一週間後にすべてのメニューを一新してブライアンにそれを知らせることになった。

 ルイジアナからニューヨークに戻ったセイジさんはアップタウンのその頃話題になっていたジョナサン・ワックスマンの店でしばらく働いたが店のコンセプトが嫌いになりヒューバーツに来た、ワックスマンはアジア旅行などの経験からちょうどその頃注目され始めたスシのアイデアをフランス料理に取り込んだメニューで売り出し中だった。しかしセイジさんによるとその実態は見せかけだけの東洋的神秘、オリエンタリズムだと言った。

 そして、セイジさんはポールのパンブラックエンドレッドフィッシュをアメリカ人の好きなサーモンで拵えそれに大根おろしと醤油を添えたいと話し、じゃあ醤油の代わりにライムを絞ったポン酢を添えたらどうかとぼくは考え二人で試作した。

 ぼくはこれもアメリカ人の大好きな海老をノルウェーの港町で味わったきゅうりとマスタードのソースに、醤油ベースへとアレンジした一皿を試作した。みんなで試作を重ねメニューを揃えるとジョシュアたちサービスのクルーたち全員で試食をすることになった。

 ジョン・デュダックはレモンスフレタルト、新鮮なニューヨーク近郊で収穫されたベリー類を使ったソルベやタルト、アイスクリームをつくった。セイジさんは兎のソーセージをチョコレートソースのモレをつくった、準備は万端だった。

 問題としてはジョシュアが、このメニューは斬新すぎるかもしれないといったことだった。通常のフレンチやコンチネンタルの「メニューはワインを合わせることが常識でワインと合う料理が大切ということだった。レンはこれだと顔を上げ、通常でない組み合わせを世界一のソムリエのジョシュアがニューヨーク中のレストランに知らしめる、どうだとジョシュアに言った。ワインと新しいメニューの組み合わせはすべてジョシュアが担うことになった。

 数週間の間に何回となくブライアン・ミラー氏はヒューバーツのダイニングルームに現れ最初から最後まで偽名でカレンと話すこともなく二人か数人数ですべてのメニューを注文した。ジョシュアはもちろん顔見知りのミラー氏の来訪をぼくらに知らせたので準備はできていたがそれ以外の情報は秘密らしくミラー氏がどんな感想を持っているのか知ることは出来なかった。

 ミラー氏の訪問、それは数週間続きそして最後となったディナーのテーブルに偽名のミラー氏はシェフのレンを呼び挨拶をして帰って行った。それからまた何日かたった夜、レンに電話がありブライアン・ミラーはあなたのレストランのメニューについてと質問した後、来週の木曜日レヴューに載せると告げ、買い物と仕込みは多めにすることを勧めた。
 電話の後レンはそれをぼくらに話し数日後にせまるその新聞の発売日の水曜の深夜を待った。

 水曜の夜、客はすべて帰り、アヴェニューもストリートも静かになった頃、カレンとジョシュアが新聞を抱えて帰ってきた。三ツ星だった、アメリカ料理のレストランとしては初めての三ツ星とニューヨークタイムスは評価した。それは絶賛とも言える記事だった。

 歓声が上がり互いに抱き合うクルーたちの間で、ぼくはセイジさんの手を握った。あたたかく力強い手だった。


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