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幽霊みたいな日々

有給の消化期間に入ってしばらくになる。連休が続いていたので、余計何もしていない時間が長く感じる。
今日は連休明け最初の日。私はまた自分の部屋でひっそりと、いるのかいないのかわからない、どっちでも特に差異はないような、幽霊みたいな存在で日々を過ごしている。
連休が明ける前と直後はいつも気分が沈む。どこかに出掛けたり遊び回ったりしていないし、かつ今は休みが明けても休みで何もないはずなのに。
多分、何もしなくていいなりに焦燥感を感じるのだと思う。暇というのは退屈をもたらす。大学生の時に読んだ『暇と退屈の倫理学(國分幸次郎)』を思い起こさせる日々だ。

実際のところ、暇がもたらしてくれるのは退屈だけではない。焦りや不安、焦燥感や劣等感を感じる。
何もしなくていいし、やりたいことを好きなだけやればいいんだけど、堕落しそうになる自分との戦いだったり、普通に仕事したり、生活している他人のことを思うと、自分の将来や人間性に不安を感じる。生きているという実感や手応えのない毎日に泣きそうになる。

次の行動や目標に向かって計画を立てる。
人と比べるのではなくて自分のやり方や生き方を模索する。
嫌いな人や怖いものから視線を落として、自分の理想に焦点を合わす。
常にこういうことを心掛ける。思うというよりは同じようなことを何度も日記に書いたりして自分に言い(書き)聞かせる。

注意散漫すぎて行ったり来たり🧶💻


去年の夏、ちょっとしたことがきっかけで自分の人生や過去が嫌になった。
それから友達と会うのも自信がなくなって、なるべくいろんなことを考えないように思い出さないように生きようと必死だった。
さっきふと、スマホに入れているスケジュールアプリを確認した。この半年間で友達に会った回数は4回だった。多いのか少ないのか微妙にわからない。1ヶ月半に1回?くらいのペースなので、もしかしたら社会人としては普通かもしれない。

人と会う回数が減ると、人生に余白が増えていく。
出掛ける頻度が減ったわけではないので(むしろ姉と・または1人でよく出掛けている)、外に出ていろんな人や物を見る。
人混みや街中を、楽しんで歩けなくなったのはいつからだろう。
なんだかやけに疲れるし、道に迷わないよう、人に流されないように標識やナビを見て歩く。もうヒールなんてしばらく履いてないのに、転けないよう足元に注意を払って歩く。
余白があるのは素敵なことのはずなのに、私は自分に余裕がないので、そういった余白を楽しむことができない。

たまにまだ寒い日が続くけど楽しんでる


友達と会わなくなったことに罪悪感を感じる。
他人が順調に人間関係や人生を構築していくのを見て、自分がそう生きられないことに劣等感を感じる。
精神的にも身体的にも健康じゃない自分が嫌になる。それを家族や友達に話すのも馬鹿げてると感じる。というか、話しても馬鹿か嘘つきだと思われるのが1番怖くて、それがまた情けないと感じる。
絵を描いたり手芸をしたり、園芸をしたり料理をしたり、そういうのが逃げ場になっていることに焦りを感じる。

余白の中で、こんな考えばかりが広がってしまう。
蓋をしているはずの過去が思い起こされて、答えはないのに他人の言動を反芻し、その行動の裏に何があるのかを考え尽くす。そのせいで何度も責め立てられるような感覚に陥る。
1日の中で、あるいは数時間単位でこういうことが何度か起こる。
かと思えばしばらくは大丈夫になる。数日、数週間後に鈍器で殴られるような感覚でそれらがまた襲ってくる。

なんか文章にするとすごく病んでいて、暗くなってしまうのだけれど、私は最近、これらを回復への兆候と見ている。
浮き沈みのない人生や人間は存在するのだろうか?というか、もし存在したとしても、自分はそうじゃないんだから関係がない、仕方がない、どうしようもないのだ。

お気に入りの薔薇のお茶🫖🌹


先日、4ヶ月ぶりに友人と会った。
相変わらず頼もしく、優しくて、話しているだけで勇気が湧いてきた。
少し前まで、対等に誠実に人間関係を構築するには、与えられた優しさや愛情を返さなければ!という強迫観念、みたいなものがあった。
そのために人の言動を深読みしたり、完璧にできない自分に落ち込んだ。
今は少し違った形に考えている。

ありきたりな表現なんだけど、
私たちはみんな自分の庭を持っていて、そこにいろんな人がやってくる。
土の上を踏み荒らしたり、何が植っているのかを興味本位で掘り返したり、時間をかけて実ったものを奪って行ってしまう人が、残念なことに結構な頻度でやってくる。
でもその度に、ここは庭なんだと一緒に怒って立て直すのを手伝ってくれる人、注意書きや看板なんかを立ててくれる人がいる。
何気なく水を撒いたり、奇跡的なタイミングで肥料をかけてくれる人がいて、ありがたいことに自分の庭で育った物の種を持ってきてくれる人がいる。

もらったものと全く同じものは返せないかもしれない。
ここを通って行った人が、また同じ場所を通る確証なんてないし、その人に追いつく術なんてないかもしれない。
けれどとりあえず、私は自分の庭に何か美しいものが実るのを待っていて、そのために準備をしておく。
水や肥料や種子なんかを、誰かの庭に分けられるよう準備をして、誰かの庭を踏み荒らさないよう細心の注意を払って歩き出す。

今はなんとなく、そういう生き方ができれば良いなと思う。
その生き方の延長線上に、誰かや社会とのつながりが持てれば良いなと思う。


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