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8.新しいノート

子供時代、勉強のノートはどの科目のものも “このノートすっごくきれいにかくぞ!” と強い決心で使いはじめていた。

日々になじんで表紙がすれたり、角がおれたりしてくる頃
授業の進みについて行けず 『先生待って、消さないでー』 と走り書きの部分が現れ、午後最初の時限に眠気とたたかった跡として 判読するのがやっとの文字も記されるようになり、もう “すっごくきれい” に一冊を仕上げられないことを受け入れざるを得なくなる。
そしてノートをとることから 授業から 心が離れて上の空になっていった。

ノートが新しくなると 飽きずに懲りずに “今回こそは超きれいに!” と使いはじめる。するとまたスピード感や眠気やレイアウトのミスが記され、、
この繰り返しだった。勉強になっていなかったよな…。


多分ノートが作品の感覚だったのだと思う。そして作品は完全にきれいでなくてはいけなかった。本来の目的が見えていなかったんだ と今なら分かりそうなのだけれど 
時を経てもノートが別のものに変わって、同じことを繰り返している自分がいる。

あの頃の新品のノートは大人の年齢になってからの、引っ越ししてすぐの住まい 植えたばかりの植物 買ったばかりの靴や服 連休初日の朝、、、に。
最初に思い描いた流れに自分が汚点と考える何かがついてしまうと、気持ちが離れてしまう部分がある。
良くしたいと思うほど、身体に力が入らなくなってしまう。



語学留学したことがあり、出会って数週間のクラスメイトと2人一組でインタビューし合い、お互いの紹介文を書く宿題があった。ペアになったフランス語圏の青年の作文には “perfectionist” とあって、『よく知らないのに!』と心外だった。彼としては一応、個性を褒める言葉として書いてくれていたのに。
この単語が20年以上もひっかかっていた。わずかな時間のつたない会話で言い当てられた気がして悔しかったからなのだと思う。
完璧を求めているわりに努力不足で、根性無しなのが恥ずかしくて隠していたつもりだったから。

無鉄砲に完璧を探求する癖も、内容の伴わないプライドの高さも、新しいノートを汚すものの様にしか捉えられず、それを消してしまえる消しゴムを探し続けてきたけれど(努力や根性には目が向かず…)、そんなものはあるわけも無い。
隠そう 消そう とする悪あがきも虚しく、身近な人たちには一部始終がばれていた。
青くて、何か意にそわないことを言いでもしたら怒り出しそうにはりつめていた頃でも見守ってくれていたし、少しはまるくなったのか数年前からは消しゴム探しまでの(徒)労をねぎらってくれたり、カラリと笑ってくれたりする様になった。

『知っていたよ』と伝えてもらえる様になった今が嬉しい。好きな人がおもしろがって笑ってくれるのも嬉しい。
その優しい笑いには励ましの力があって、かたくなだった心と動かない身体が少しずつ持ち直す瞬間が出てきた。
消しゴム探しは打ち切りでいいみたいだ。








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