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分からないことの贅沢さ~『BLUE feat. kojikoji/LUCKY TAPES』MV感想

初めて見たMVをそのまま3回見返した。

「とても良い作品を見た後味」を感じつつ、その正体というか、輪郭というか、その映像の何がどう深く刺さったのかよく分からないまま、ここまで強く印象に残ったMVは初めてかもしれない。

かくして突発的に心の動きを言葉にしようとキーボードを打っている今なのだが、こうして僕を動かしている不思議な余韻の発生源はLUCKY TAPESの『BLUE feat.kojikoji』という曲のMVな訳で。

「分からない」ことの安心感

脈絡もなく僕の近況について話すと、特に落ち込んだり病んでいたりはしていないものの、このご時世に身動きが取りづらい息苦しさは当然あり、少なからずダウナー感を覚えていることは否めない。

ただ現状のこの鬱屈とした空気について、自分一人の意気込みや行動でどうこう出来るモノではないことも重々承知しているので、こんな時は変に気張らず、ネガティブ情報へのアンテナ感度を下げながらゆらりゆらりと柳の葉のような日々を送っている。

そしてこうした足踏みの時期に優しく寄り添ってくれるチルい(※初めて言った)音楽をぼんやり探していたら上記の楽曲に偶然たどり着いた、という注釈が、恐れ多くもオシャレ音楽をしたり顔で聴いている最近の僕の精一杯の照れ隠しである。

なお曲の感想については僕に音楽的な知識がないので、「ヤバイ!エモイ!最高!」とムゴいまでの無語彙を露呈する以外に絶賛の表現を知らないのだが、なんというか、曲中に漂う心地よいまどろみというか、目の前の現状を否定も肯定もせずただぼんやり眺めているような歌詞とメロディーに宿る温度感が、息苦しい現実にやや辟易としている今の僕の心に深く沁み入るような気がした。

そしてそんなメロディと歌詞から起こされたMVの映像は、さまざまなシーンの男女が交互に映される形式で、断片的に散りばめられた各シーンの繋がり方を想像すればするほど、全体のストーリーの輪郭が色んな形を取る可能性が見えて面白い。

果たして赤ちゃんを抱いた幸せそうな夫婦の映像は、主人公たる少女の思い描く理想の未来像なのか、はたまた夫婦に抱かれている赤ちゃんがかつての少女なのか。

またMV終盤での思い詰めた表情の少女は電話で何を告げられたのか。

ラストシーンで少女が流した涙は、現状の幸せに静かに打ち震える感動の涙なのか。

はたまた近づく別れをその身に感じた哀切の涙なのか。

考えれば考えるほど分からない。

ただ、全てにおいて結論や要約や解釈や考察、その他ひっくるめて「答えのようなもの」を求めたがる情報化社会の現代において、こうした想像の余白、ひらたく言えば「分からなさ」をじっくり味わえるのはむしろ贅沢なことだと感じる。

また、おそらくこの曲やMVにも、作詞・作曲者や監督による意図や脚本や設定など、あらかじめ作られた大枠があるのかもしれない。

ただそれについて僕は積極的に調べるということをしたくない。

なぜならこの心地よい「分からなさ」を手放したくないし、この鬱屈とした日々を紛らす一服の清涼剤として、これからもこのMVと今の距離感で長く付き合っていきたい。

そして同時に、こうした創作の領域における「分からなさ」を楽しめる心の余裕は失いたくないし、そのためにもこうして時折自分との対話を設けるべく、まとまらない考えを下手くそな文章にして人知れず書き続けたいとも思うのだ。

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