厄介ヲタク、自己否定。

俺は自分が非常に嫌いである。皆の中に自己を嫌悪し生きる者も少なくないと思う。何も成せず何も変われず無為に日々を過ごし、生きるだけで周囲の人間に迷惑を被らせる、果てに「自分など生きていてはいけない」と自責を続けつつも生き長らえてしまっているのが俺であり同志である皆である。こうした鬱屈な感情を、例えばヲタク的活動により晴らす、または忘れることができる者もいる。が、生憎俺は性格も悪いので、100の内99の楽しかったことが1の辛いことに上書きされてしまうのである。日々が辛い。多くの漠然としたやりたいことがYouTubeやTwitterのスクロールに流されて露と帰しているので、自己啓発の意味合いも込めてここにノートを記すこととした。
 性格の問題はおおよそ環境が悪い。ネガティブを変えられるのは結局本人の考え方次第。性格が悪いだけあってろくに友達もいないので、特に高校生活の三年間は自責の時間が長かった。そこから何も学びがないのが本当に悲しいところ。シャニマスという存在に出会ったのは高校卒業後少ししてから。このコンテンツは俺の価値観を大きく変えていたのかもしれない。ライブに行った。ライブ自体が人生初で、故に「空は澄み、今を超えて。」は今も心に刻み込まれている。閉鎖的になることは価値観を狭めてしまい終わらない自己否定を起こすので、マジで何でもいいから何か新しいことをした方がいい。人との交流もなるべくした方がいい。交流できる人さえいるならば。
 言説を唱えたい、冒頭述べた所謂自己嫌悪について。ずばり、「自分嫌いとは、自分の厄介ヲタクであることだ」というものだ。あなたは遅刻をしたことはあるだろうか。その有無は些末なことで、本当に危険な思考というものは、遅刻することを自分の性質だと思ってゆくことなのだ。何事も二度三度繰り返せばそれが自身のアイデンティティなのだと自他に思われるわけだが、「自分は愚かだ」と思い込み過ぎて、[まともに生きる自分]が解釈不一致になっていく 、こういう人間(俺)は他者から見た自分と自身のイメージの乖離を極端に嫌い、[周りに思われているであろう自分]という妄想を作り出してそこに自分を当て嵌めることで自身を確立しようとする傾向にある。他の例も存分にあって、「この服は私には似合わない」「こんな歌を聴いてカッコつけている」「これを食べているなんてダサい」どうだろうか。思い当たる節は無いか。要は「あなたは自分の解釈(妄想)を押し付ける厄介ヲタクになっていないか」ということだ。らしさなんて無い、正しいものも正解もない。確かに心理的に人間は一貫したものを好みがちである。自身の意志を貫く誰かの姿が魅力的に映ることもあるだろう。だがそれは「だからそうすべき」だという理由には決して成り得ない。好きなことをしたらいい。
そのうち溜まってるコミュを読もう。だから今日は、ここまで。

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