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東京都杉並区高円寺(仮)①

どうも。こんばんは。なめ茸です。


空前の全宅ツイnoteブームもひとまず初速が落ち着き、これからどうなっていくのか楽しみな時期ですね。
個人的には今回のnote祭りでは、日々個性的な呟きスタイルを持つ面々の、考え方や価値観、生い立ち、人生の転機、仕事ぶり…といったバックグラウンド情報に触れることができて、とても楽しんでいます。
まだ読んでいないよ!という方(このnoteに辿りついた方では少数だと思いますが)。よぎべらさんまとめ(※外部リンク)を作って下さいましたので、ぜひ年末休みの持て余した時間で、読んでみることをお薦めします。どれもめちゃ面白いです。

え?課金?課金記事があるじゃないかって?
ガタガタうるせえ馬鹿野郎!読んでみろっつってんだろこの野郎!1000円?2000円?ハシタ金だろ馬鹿野郎!親戚の子供にあげるお年玉より安いだろ!!物事には対価ってもんがあんだよ!
こちとら今朝、ヨメにエアコン点けっ放しを責められて、思わずサイフの中の万札をテーブルの上に叩きつけて「これが無駄にした電気代だヨ」ってタンカ切ってきたんだよバカヤロウ!!
お金ないんだよ!お小遣い制ナメんなコノヤロウ!あとその時の妻の顔がフラッシュバックして帰るのが怖いよ!怖いんだよ!!!

…。

……。

取り乱しました。
そんなわけで各note、面白いのでぜひ読んでみてください。
そして、不肖ながら私、なめ茸もこの度noteにチャレンジしてみました。
前々から何かしら書いてみたいと思っていましたが、私自身、特段の経歴もスキルもありません。何を書けばいいのか。ずっと迷っていましたが、かれこれ10年を過ごした「高円寺」の街をフィルターに、自分の人生を少し振返ってみようと思います。
続くか続かないかわかりませんが、高円寺の話です。どうぞ。

【東京都杉並区高円寺(仮題)】


『引っ越し』


2008年7月。僕は23歳で、初の独り暮らしを高円寺で始めようとしていた。
実家は埼玉県で、モデルルーム勤務という仕事柄(半年~一年スパンで勤務地が変わる)を考えても通えない場所ではなかったが、埼京線のアホみたいな通勤ラッシュにはほとほと嫌気がさしていた。
また、フロ・メシ・洗濯、全部がオートで出てくる実家生活は通勤便を除いて快適なことこの上なかったけど、同時にグータラこの上ない自分がこのまま自立できない恐れを感じており、変わるきっかけが欲しかった。

そして何より、都会での自由な生活に憧れがあった。

独り暮らしをするにあたって、場所は高円寺が良いと前々から決めていた。
学生時代によく古着を買いに来ていて馴染みがあったし、当時好きだったバンドの出自のライブハウスがあって、住んだら通い詰めてやろうと思っていた。
ジロキチという界隈では有名なハコで、ジャズ・ソウル・ブルース系のバンドの登竜門的名店です。結局、1回しか行ってない。その時はべジータの服を着た大阪人が、アースウインド&ファイアーのコピーを歌って踊ってました。)

当時、少ない休みを費やしてださいたまから高円寺の賃貸屋に足繁く通い、やっと決めた自分の砦は、JR高円寺駅徒歩8分環七沿い、EVなし5階・19㎡1R・家賃8万(+管理費1万)という、まあ何というか条件面では特色のない物件だった。

内見で賃貸屋と初めて部屋に入ったとき、何とも言えない酸っぱい匂いがした。
ミ●ミニのニイちゃんは「前の居住者がタイ人だったんす。クリーニングしますわ。」と説明していたけど、引っ越し初日、匂いは依然としてハッキリと残っていた。ナンプラーつよい。仲介クソ。ちゃんとヘヤシュしたんかお前。

段ボールを全部運び終えて部屋に1人。窓を開けると、環七の騒音・排ガスと一緒に、盛夏のギラついた夕陽を反射する高円寺の街が視界に飛び込んできた。10年経ったいまでも思い出せる。あれは自由の景色だった。
引越そばは家の隣のラーメン屋で食べた。とにかく味が濃かった。自由の味だった。


『友達がいない。何者でもない。』


引越しからしばらくの間は新環境への適応で精一杯だったが、それも一段落すると何とも言えない物足りなさを感じるようになった。
結局、家⇔職場の往復だけで、全然高円寺していないのだ。

実家にいる頃は、高円寺に住めばきっと行き着けのバーやライブハウスが出来て、飲み仲間が出来て、いい感じになる女の子とかもいたりして、ウフフ・・・などと勝手に思い描いていた。
実際には、平日は何だかよくわからん時間に帰ってきてラーメンだけ食って寝て、休日は遅く起きて掃除洗濯買い物を済ますと、ほぼ日が暮れているような有様。
たまに時間ができても、飲み屋が多すぎてどこに入っていいかわからない。
バーは怖くて入れない。ライブハウスも結局きっかけが無くて行ってない。そもそも自分そこまで知識ないし・・・。

そう。当時の(いまも若干そうだけど)なめ茸は典型的引っ込み思案。準備をしてからじゃないとカッコがつかないので新しい場所に飛び込めないタイプだったのだ。
そんなわけで折角の高円寺で暮らす休日の時間は、ほぼ家事とプレステ3に注いでいた。GTA4が楽しすぎた。オンラインやばい。

それでもごくたまに、家に人を招くことがあった。学生時代の友達や、会社の同期など。しかしそれも1ヶ月に1度あれば良い方だった。
都会でポツンと1人。自由だった。自由だったが、寂しかった。

あ、そうだ。友達がいないと書いたけれど、実は高円寺に暮らし始めて早々に、1人の友人と再会していた。
大学のゼミでリーダーをしていただ。
Eとは通勤電車内でたまたま出遭った。おお!久しぶり!いまどこ住んでるの?俺高円寺。俺も高円寺。ええ!マジで!!てな具合で意気投合。その後は何度か高円寺で飲んだ。

Eは学生時代から誰とでも分け隔て無く接する良い奴だった。そしてオープンゲイだった。イケメンだったのでめちゃくちゃモテた。
当時Eは某情報系会社で激務をこなす傍ら、ゲイリブ運動にのめりこんでいて、雑誌に記事なんかも執筆していた。今では誰もが知っているLGBTという言葉を教えてもらったのも、彼からだった。

Eはめちゃくちゃ忙しそうだったが、めちゃくちゃ充実しててカッコよく見えた。対比して、自分は何者にもなっていない。焦りと劣等感に苛まれた。だからか、Eが時々飲みに誘ってくれても、何かにつけ自分は断るようになっていた。

そうこうして、気付けば季節は冬を迎えようとしていた。


『高円寺 思い出の店(2008年夏~09年末編)』


閑話休題。ここまで書いて、全然話が進んでないのに文量的にはそれなりになってしまったので、数回に分けることを決意。
それならば都度都度、ボリュームを贅沢に注ぎ、その頃よく使った店を振返ろうという企画を行います。
誰特かといえば僕特です。当時の高円寺の雰囲気よ、伝われ!!

さて、4ヶ月ほど高円寺で暮らす間によく使い、思い出に残る店と言えば以下の通りです。


●ルーティンのラーメン屋を5、6店ほど
・(特に家の隣のラーメン屋。味が濃すぎるが使い勝手は最高。店主のジジババは揃って曲者で、よく閉店後に残った豚骨スープを、家の前のマンホールを勝手に開けて流していた。おかげで蓋がギトギトで、何回か転んだ。数年して店主が足を悪くして店を畳み、今では学習塾になっている)
・(ラーメン太陽はこの頃からずっと変わらない味で、ずっと通い続けているのに、店主のおばあちゃんは頑なに僕の顔を覚えてくれない

●小杉湯
(家の湯船はほぼ使わなかったので、寒くなってからはよく通った。ミルク風呂と水風呂が有名。築70年の威風堂々たる建物は銭湯マニアのみならず建築マニアからも愛される。銭湯神ヨッピーも御用達。お絵かきオッケーなので多種多様なバンドマンの裸が観察できる。首筋に★型の刺青が入ったお兄ちゃんとよく遭遇した)

●クリーニング屋
(家から一番近かったので使っていたが、1/3の確率で強いワキガの店員に遭遇

●チャイエス
(ミニミニ(今は潰れて吉野屋。それも潰れたかも)の上にあった。記念すべき初風俗。パネマジどころか写真がない。「オシリ、イケル?」と尋ねられ「わかんない、やめて」と答えたらゴム被せた指突っ込まれてグリグリされた。何て答えてもやる気だったろお前

●さくら組/ひまわり組
(ピンサロ。チャイエスの洗礼を受けた僕には全てが最高だった。摘発を受けて今は転生している ※リンク先18禁)

メイドin中野
(箱ヘル。最高&最高&最高。※リンク先18禁)

●コネクシオン
(勇気を振り絞って入った唯一のバー。よくイベントを開催していた。記憶に残っているのはプロジェクターを使ったYoutubeの上映会。店主は良い人だったが、酒といえばジントニックしか知らない自分には敷居が高すぎた)
●定食屋
(もう無い。壁一面に山ほどマンガが積んであり、600円の定食を食べた後は、1時間くらい蒼天航路を貪り読んだ。周りの客もそんなのばかりで居心地が良かった。多分客の回転がすこぶる悪くて潰れたんだろう)


以上。なんだこれ。


『はじめの一歩』

冬を迎え、変わらず僕は1人だった。

クリスマスを目前に、わき目も振らず「どうぶつの森」で村づくりに勤しむ日々。
イブは実家でチキンを食べました。ひどい。

そんな日々にそろそろ終止符を打たねば。そう感じた僕は、ある行動に出た。
現実がダメなら、ネットに頼ればいいじゃない。
2008年、今から10年前のインターネット。信じがたい事に、まだ人と人同士がネットを介して出会うことに特別なときめきが残っていた当時
あの頃、友達を作るのにうってつけのツールがありました。
そう。”mixi(ミクシィ)”が、ある。
(mixiを知らない人はいないと思うけど、もしいたらググってください。ツイッターとフェイスブックのあいのこみたいなものです。当時、出会いの温床でした)

実は高円寺に越してきて間もない頃、「高円寺コミュニティ」というmixi上のグループに加入だけはしていた。
簡単な挨拶の後は、常連同士のやり取りに馴染めずにそのまま放ったらかしにしていたが、そこが年明け早々の時期に、大規模な新年会オフを企画しているとの情報が目に入った。
その人数、なんと60名超!!
それだけの人がいれば、きっと初めての自分でも馴染めるだろう…!
もうこれしかない。とにかく友達が欲しい。高円寺で苦楽を分かち合う仲間が欲しい。そして高円寺にもっと馴染みたい。高円寺の人になりたいんよ
すがる思いで参加を申し込んだ。

そして年があけた、2009年は1月10日(土)。オフ会当日
仕事で遅くなり、高円寺に到着したのは21時過ぎ。1次会は駅前ロータリーでの記念撮影(通行の結構な迷惑。しかしそれが高円寺民の流儀)のみの参加で、2次会のカラオケから本格合流となった。

大部屋に15人ほど、ドドっと流れこむ。
デブ、チビ、オッサン、お姉さん、ロリ女、イケメン、ブサメン、リーマン、無職風。多種多様な高円寺民がミックスされていた。
僕は誰が誰かもわからず、たまたま隣に座った、ド派手な金髪の小っこい女性と少し会話した。
何を会話したか、内容は覚えていない。ただ、とにかく声がでかかったことと、年上だろうが年下だろうがお構いなしに呼びつけて飲み物の注文を取るような、良く言えばチャキチャキしている姿が印象的だった。

10年経って、そのひとは今、家で娘と一緒に、エアコンのことでめちゃめちゃ怒って僕の帰りを待ってるみたいです。


続く(と思います)

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