清算

なぜこうなっているのだろう。
どこで間違えたのだろう、そんな思いを握りつぶすのは結局解決にならないのではないか。

元来怒られるのが怖かった。
一番古い記憶はあぁこの人は私のことを大切に思ってくれてるんだ、こんな僕を、期待から逸れちゃだめだ怒られないようにしないと、嫌われないようにしないとという恐れだったと思う。
自我と言えるのは自分を存在させたい、否定しないで欲しいという他人にのみ寄りかかった異常な恐怖のみであった。他人の評価や言外の空気感というものに怯えながら恐怖を無為に接種し続けていた。
世の中には虐げるものと虐げられるものしかいない、自分は卑小で凡才未満だから、自分なんかが認めてもらうには人と一緒だと切り捨てられる。そうした焦燥の反面で手前勝手な独善と肥大したプライドと下手な自信が、ある程度怖くない人(彼らは賢明だったからこそ動物的なモノを隠せた)に対してナメてかかり不安定な自我と恐怖の発散に利用した。
逆に根拠のない自信や愛されて育ってきたパワーのある人の前では固まって何も出来ないのである。

保険に保険をかけ、本当の自分が傷つかないように歩いてきた。その恐怖に立ち向かうのに体が動かない。本気で挑戦して自分が無能だと気付くのが怖くて仕方ないのだ。

平面鏡の歌詞に共感する「あたしは怖くてしょうがないよ、君の目映り込む体真実よりも確かな虚像を捉えて違いない思想今すぐに伝わってほしいよ」


甘えすぎてるのは分かってる、ぬるま湯に浸かって見たくないものから逃げて、先延ばしにしてきた24年だったのかもしれない。わかってたつもりだった、大したことはない、結果こそ全てやろうと思ってましたじゃないんだよ。何をやったかなんだよ。

じゃ何が建設的なのだろうか
行動である。
計画である。
スモールスタートなんて知ってる、やるかやらないかだ。せっかくもらった時間。有意義に使うって言ってたじゃん。お前は何がしたいんだ。
そろそろ逃げずに決めないといけない後1年で方向性は確定させなきゃいけないんだ。


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