曖昧な世の中への一考察

実際にそうであることよりも、
そうであるように思える、そうであるように思えない、の"ように"の部分が大切だし、そうであることの意味・目的はあらゆる面からそうである"ように"思われることのみなのでは無いだろうかと気付いたしそれに救いを求めたい夜です。

安全基準を満たすのはそれが安全だと広く示す為であり、安全だから皆安心できるねって話。極論安全基準を満たしていなくても破綻しない限りそれは安全基準を満たしているのと同じ扱いがされるし、安全基準を守っていても安全じゃなければそれは安全基準を守っていると言えないということ。

病名をつけるのはそれに対する治療・理解の画一化を家族、友人、職場、医者、理学療法士そして、時には時代を超えて同業者同士で進める為であって病状を紐解く際のツールでしかない話でそれで幸せか不幸かは決まらないし人生万事塞翁が馬である。
病名が診断されて確定しても手のつけようがなければどうしようもないのだ、病名なんてものはツールでしかないから人類に発見されてないものなんていくらでもあるし観測されてからがスタートなのである。

上記2つの例からは唯心論的立場であるかのように書いたがそこには価値基準が存在し事物があるから存在が確認されたのである。存在の森羅万象は結果であり、更に言えばその結果から得られる情報なのである、ここでは結果自体はどうでも良い事で観測によって情報を得るというプロセスとその得られる情報の方が価値を持つのである。 
これは心そのものがそういった機構を持つ物という風にも言うことが出来る、鉄は燃焼すると酸化する、何かを受容すると電気信号やホルモンで反応する同じく摂理である。

しかしながら、心の働きそのものは非常に難解で人だけでなく動物や植物にもストレス反応や複雑な反応がある。これらは単一の機構では説明がつかずその再現性は無機物に対して皆無であるように思えた。のだが時代の寵児AIさんによって性格の機微、語彙のニュアンスが再現されているのである。

〜事実は1つだが真実は人の数だけある〜ミステリと言う勿れの台詞であるが心という不完全な機構によって映された現実(と思っている物)は実際そうであることか実際そうでないことかはどうでもよく、心という機構によって観測されて出力された結果から情報が得られることのほうが大切なのである。

結果はどうでもいいがその結果を直視し何かを得ることが現実を理解するということなのでその営みからは背きたくないなと。それでいてその観測結果は私というフィルタを通してバイアスがかかって出力された"現実もどき"なのであるという認識も忘れないでいたい(これが結果がどうでもいいと再三繰り返す理由、数字で物理であろうとあらゆる定量的な尺度を持ってしてもその印象や余白部分からは歪みが他人間で発生するのは絶対的なものである)、人間の見る事のできる色彩には限りがあるし、聴力で拾える所にも限界はある。これらの中でやりくりをしているという認識を持って広い視野と見識を持って生きていきたいなと。

逆説的に言えば未来は不確定なのである。
今時点でどこにいるかは未来の材料でありそれが確定するのは事象の後でしかないのである。
ならば今この瞬間だけでも光を探してもバチは当たらないと思うのである。

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