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エヴァから告げられた「さようなら」。『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』感想(ネタバレあり)

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を見終わって真っ先に思った。

「これはエヴァ世代に向けたエヴァからの「さようなら」だ」……と。

もちろん、エンターテイメント作品として見ても、確実に完成度の高い作品であることには間違いないのですが、それよりも何よりも、これはテレビシリーズ当時からずっとエヴァを追い続けている自分のような人間に対して、もうエヴァを追い続けるのはここまでだ、と告げるラストだったと感じました。

エヴァンゲリオンという作品は、多くの人にとってあまりにも大きなものになり過ぎています。

それは視聴者にとっても、アニメ業界にとっても、いつまで経っても存在感を残し続け、エヴァを模倣したようなアニメやキャラクターが次々と生まれ、それが模倣と知りつつも楽しんできました。

でも、そう言うのも含めて全部もう、これで終わりにしようぜ、と言われているような作品、それが『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』でした。

と言うことで、そう感じた部分を中心に感想を書いていきますが、完全なるネタバレをバンバン書いていくので、映画を見た人だけこの先に進んでください。

後からネタバレに対する文句は一切受け付けませんので、ご了承の程を。見てない人は今すぐブラウザ閉じるか戻るボタン押してください!

はい、というわけでここから先ネタバレします。

あ、一応言っておきますが、ここから書く事はあくまでもあの頃からエヴァンゲリオンを追い続けていたオタクが勝手に感じ取ったことであり、そうじゃない人は普通に見たら普通に面白い映画なのは間違いないです。

っていうか、めちゃめちゃ面白かったと言うことは最初に言っておいて、その前提でさらにこんな事を思ったよ、という話です。

ではどうぞ。長いですが。


・夢とタイムリミット。

始まってすぐ、シンジたちの辿り着いた集落を見て、

「なんかあの頃の俺たちが見ていた理想の夢みたいな世界だな」と思った。

トウジが居て、ケンスケが居て、変わらずシンジを友達として助けてくれて、トウジは委員長と結婚してるし、アヤナミ(そっくりさん)は皆の中に溶け込んで感情が豊かになっていき、可愛くて、シンジの事を好きで付き添ってくれて、ミサトさんと加地さんの間にも子供が生まれている。

絶望的な状況を描いたQと同じ世界とは思えないくらいそこには日常があって、笑顔があって、エヴァの世界が平和なまま時間が過ぎてこの生活が描かれていたらどんなに楽しいだろうかと妄想してしまう程に。

最初はQのトラウマを引きずっていたシンジも少しずつ馴染んでいき、成長した友人に引っ張られるように、自分も大人になっていく。

しかし、それと同時に、アヤナミ(そっくりさん)が消滅してしまう。

この辺も詳しい説明はあまりないけれど、おそらくネルフで何かしらのメンテナンスをしないと生き続けられない存在だったのでしょう。

つまりは、タイムリミット。

あの頃の夢のような世界に、いつまでも浸ってはいられないのだと。

別れの痛みを受けつつも、大人になって新しい道を進む必要があるのだと、まず最初の別れを突きつけてくる存在が、アヤナミ(そっくりさん)でした。

そもそも、そっくりさん、と呼ばれているのも、この状況がかりそめのモノだ、という暗喩にさえ思えてきますし。

ここでシンジが、ミサトさんや父さんと話をするために、自分のしたことに責任を取るためにヴィレに戻る決意をするのは、大人と、つまりは社会と向き合う事を示唆しているように感じました。

現実を見て、社会と向き合い、あの頃の夢に別れを告げる。

それが大人になる事、なのだろう、きっと。


あ、これはちょっと余談なのですけど、食事を取ろうとしないシンジにアスカが無理やり食べさせるシーンの作画がめちゃめちゃ良くて好きでした。

多分ですけど、「横になってる人に馬乗りになって口の中に無理矢理飯を押し込んで食わせる」というシーンがあんなにも見事な作画で描かれることは、今後何十年も無いんじゃないかなー、っていうくらい素晴らしかったです。

……いやまあ、そもそもそんなシチュエーションがめったに無いだろう、という話ではあるのですけど(笑

余談おしまい。


・ミサトさんが辿り着いたのは。

ヴィレの船ヴンダーに戻ってからは、ミサトさんの生き方に決着を付ける話が多かったと感じました。

なによりも、ネット上でも散々イジられていた

「行きなさいシンジくん!!」

と「破」で言っていたのに「Q」になったらいきなり「何もしないで」とか言ってくるのどうなってんのミサトさん!?

という問いに、ここまで見事に答えるか、というくらいの答えを提示していました。

あの場で「行きなさい」と言ったことに対してずっと負い目を感じていたと自らの責任を明確に口にしたのは驚きましたし、そこまでハッキリさせなくても良いのでは?とさえ思いましたけど、そこを曖昧にしたまま、ツッコミどころを残したまま葛城ミサトというキャラマターを終わらせられないという強い意志を感じたシーンでもありました。

個人的にだけれど、エヴァにおけるミサトさんの立ち位置というのは、シンジにとっての母親代わりだったように思うんですよね。

ただ、14年前はまだ母として接するには若すぎて、女としての人生もある、ネルフの一員として仕事を全うする責任もある、色々な要素が噛み合わず、母になり切れていなかったのだけど、14年経ち、自分の息子も居て、その息子とシンジくんのツーショットの写った写真を見ながら自分の命を燃やすその時、ミサトさんは二人の息子の母として最期を迎えたように思えてなりません。

最後の最後で、ようやくその役割に辿り着けたのだと。

……たぶん(急に自信を失う)。


・似た者親子だな!!

そして、シンジと父ゲンドウの直接対決が最終決戦になるのですけど、ここで描かれるのは、あまりにも二人が親子である、ということでした。

少し話は戻りますけど、映画冒頭のシンジの凹んでるシーン……めちゃめちゃ長いですよね?(笑)

正直、これが最近の作品だったら、「いつまでウジウジしてんだよ うっとおしいなこの主人公!!」って言われてしまうくらいにまぁ長い時間ずっとウジウジしてるんですけど、ただ、それでこそ碇シンジなんですよね。

なんなら「序」や「破」のシンジ君はちょっと前向き過ぎてビックリするくらいでしたもん。ただそれはそれで、シンジのこんな成長した姿が見られるなんて!という感動もあったのですけど。

作品的にも、何度も世界を繰り返してる事が明かされましたし、そういう中で無意識にでもシンジが成長したのか、それとも、繰り返す中で奇跡的にそういう性格が生まれたのかは、わかりませんが。

ともかく、そんなウジウジしたシンジの性格が、この父からの遺伝だったのだと言われても納得するくらい、ゲンドウはそれ以上にずっとウジウジしてたのだと明らかになるわけです。

ゲンドウは精神的には本当にずっと子供で、唯一の理解者としてユイが現れてくれたことで結婚して子供も生まれたけれど、心は大人にならないままユイを失ってしまったことで、ただひたすらにずっとユイの事だけを追い続ける人生を選んでしまった。

別の見方をすると、ゲンドウってセカイ系の主人公だな?…と(笑

一応説明すると、セカイ系ってのは「主人公とヒロインの関係性がそのまま世界の運命に直結している」みたいな作品のことです。まあ、この言葉自体がエヴァから生まれたというか、きっかけになったような言葉ではあるのですけど、そこから色々と定義が広まっていき、最終的に今は上記のような意味として使われている(と思ってる)のですが、まさかゲンドウがそのど真ん中に居たとは。

だってこんなん、「世界を敵に回してもキミを助けてみせる」みたいな事やってる訳じゃないですか。

実際にそれをやろうとした結果、本当に世界が大変な事になっているのですけど、とにかくユイを取り戻すと言うことだけを目標に動き続けた人生なのだとしたら、描きようによってはゲンドウもヒーローだったのかもしれない。

でもここで強調されるのはやっぱり身勝手さというか、大人になれない、大切な人を失った傷を乗り越えられない弱さとして描かれ、大人になったシンジが親を超えていく、というのは凄く象徴的なラストだな、と。

世界を犠牲にしてもユイを取り戻したかったゲンドウ。

自分を犠牲にしても世界を救おうとしたシンジ。

そのシンジを救うためにずっと見守っていたユイ。

どこまで行ってもこの作品は、「親子の物語」であり、大人と子供の在り方を問い続けた作品だったなぁ、と。


それはそうと、カヲル君について語られていたアレってつまり、シンジの事を想いつつも、自分は愛せない、愛してはいけない、と思ったゲンドウが、「自分の代わりに絶対的にシンジを愛してくれる存在」としてカヲル君を生み出したってことですよね……?

いやあの……ツンデレにも程があるな!!!


あと、これも余談なんですけど、教室とかキッチンとかでエヴァ同士が戦ってるあのシーンって、笑って良いヤツですよね?(笑)

個人的には凄い笑いそうになったんですけど、他のお客さんみんな全然笑ってないから「あれ?違うのかな?」って思ってこらえたんですけど、あれ絶対笑って良いヤツですよね!?だって絵的に面白過ぎるじゃないですか!?

余談おしまい。


・ラストを告げるヒロインたちとの別れ。


最後の駅のシーンで、シンジの手を取り共に走りだすのがレイでもアスカでもなく、マリなのも、凄く象徴的なシーンでした。

エヴァという作品そのものの大きさはもちろんですけど、レイとアスカという二人のヒロインが与えた影響もまた、とてつもなく大きいのではないかと。

アスカは、TVシリーズ当時はまだそうは言われてなかったと記憶してますけど、今にして思えば「ツンデレ」キャラの系譜を語る上で重要な位置に居るのは間違いないでしょうし、

それ以上にレイは、「無口で無表情で小声で喋り感情を表に出さないが、だからこそ不意に照れたり表情が生まれるのめちゃめちゃ可愛い」というタイプのキャラクターを大量に生み出し、「涼宮ハルヒの憂鬱」の長門有希 等を経て今となっては「クーデレ」と呼ばれるジャンルを作る大きなきっかけの一つになったと言っても過言では無いでしょう、たぶん。

しかし、最後の駅のシーンでレイらしきキャラはカヲル君らしきキャラと一緒に居ます。

これはまあ、上で書いたようにカヲル君が「子供を可愛がるゲンドウ」の具現化なのだとしたら、レイ=ユイと一緒にいるのはわりと自然なことだと納得出来ました

一方でアスカは、最後の出撃の前にしつこいくらいに「最後だから」と繰り返しながら、シンジに「たぶんアンタのこと好きだった」と告白し、シンジも「僕もたぶん好きだったよ」的な返答をします。

この時点でもう、2人の恋は過去のモノになったのだな、と。

なんというか、少年時代の初恋なんて叶わないんだよ、と言うようなシニカルさ さえ伴っているようでいて、最後に告白することで素敵な思い出として恋を終わらせる、というロマンチックさもあるような。

さらにその後で、アスカは最後にケンスケの事を思い浮かべ、最後に突然そんなカップリング持ってくるの!?という驚きと共にシンジとの恋は完全に終わりを告げました。

作品を象徴する二大ヒロインが主人公のもとを離れ、新劇場版から新たに加わったマリが最後に手を引いていくのも、エヴァンゲリオンという作品との別れ、というメッセージとしてとてつもなく大きいなぁと。

いつまでもアスカやレイじゃないだろう?君達も思春期の恋はもう卒業しようぜ。……みたいな。

そんな風に、とにかく大人になる事、そしてエヴァとの別れが強調されている今作ですけど、もっと言えば、成長したシンジの声が変わっていたのさえ、緒方恵美さんをはじめとする声優陣すらも、エヴァ声優という鎖から解き放ってあげたい、という意思を感じるようにさえ思いました。


・とは言え とは言え……ですよ?

そんな風にエヴァからの別れを告げられた『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』ですけど、じゃあそれを受けてもうエヴァを卒業します!って言えるかどうかは、また別の話な訳で。

そもそも、そう言ってる監督自身がこの作品を作るのに8年もかかってる時点で、エヴァとの別れがどれだけ難しいのかを表しているような気がしますし、自分はシン・ゴジラとかシン・ウルトラマンとか子供の頃好きだった作品を今でもずっと好きで仕事にまでしてるのにな!とかツッコミを入れたくもなるわけです(笑)

そんなに簡単な話じゃないんですよ!我々エヴァ世代のオタクとエヴァンゲリオンという作品の関係性は!!

監督にとってウルトラマンやゴジラがそうであるように、我々にとってエヴァンゲリオンというのは自己を形成する上で大きな要素を占めた原体験であり、今でも、これからも心の中に残り続けて消えないエポックメイキングな作品だったのですよ。

だから忘れる事は出来ないけれど、それでも、新作がもう作られないとなったらきっと、「好きな作品」から少しずつ年月をかけて「昔好きだった作品」に変わっていき、最終的には思い出の箱の中にエヴァを入れる日が来るのでしょう。

そうやって、大好きだったものを一つ一つ思い出の箱へと入れていく行為こそが、大人になる、と言うことなのかもしれませんね。(なんか上手いことを言った風)

それでも作中の言葉を借りれば、「さよならはまた出会うためのおまじない」

だから、あえて言いましょう。


またいつか、思い出の箱から取り出すその時まで、

さようなら、エヴァンゲリオン。

そして、ありがとうございました。


                                                                                      終劇

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