【朗読Q&A】「」のついていない台詞はどう読むか

皆様の朗読に関する質問にお答えするコーナーです。
今回の質問はこちら。

Q.

朗読で、カギ括弧はつけられていないけど、
明らかに誰かが言ったであろう文章がある場合、
台詞っぽく読んでも良いのでしょうか?

A.

ご質問ありがとうございます。
こういう質問楽しいですね。
皆さんの朗読に関する質問にお応えしていって、私の考える「朗読」も明確になるので、助かります。
やがてこういうのを集めて、一冊の本にまとめられたら、面白いでしょうなぁ。

では、いきます。

「」はついていないけれど、明確に誰かが言ったであろう文章がある場合、台詞っぽく読んでもいいのか?

私としては、

「どうぞ台詞っぽく読んで下さい!」

と思います。
「っぽく」というか、台詞として読んで構わないと思います。

・朗読は自由だ

基本的に私は、朗読は自由だ、と考えていますので、
「これはやっちゃいけないことかな?」
「これはルールと違うから…」
みたいな事は考えずに、どんどん思うようにおやりなさい!
という派です。

ただ、朗読にはなんとなく「暗黙のルール」的なものが漂っているのも事実だと思います。
感情を込めて読むのが良しとされる事も、
感情を込めて、人物の声を声色で変えるのは朗読ではない!
と言われる事もあります。

それだけ、「朗読」という言葉が明確になっていないとも言えますが、朗読はそれだけ懐が広い、とも言えます。
絵画でも演劇でもそうですが、
「こんなのは○○じゃない!」
という批判の声はどこにでもあると思います。
ですがそれは
「こんなのは(私が思う)○○じゃない!」
という場合が多いと感じてます。
絵の世界でも、印象派とか、キュビズムとか、
まぁ詳しく知らないのであれですが、
流派みたいな物があるじゃないですか。

それと同様に、朗読も、色々な流派があっていいと思うんです。
何か一つの絶対的ルール、は存在しないのではないかと思います。
人が声を出して文章を読む。
巧拙はあれ、それはもう、朗読という広い海の中に漕ぎ出している事だと思います。

なので、どんどん思うようにやって、
「あなたの」朗読を探求してみて下さい。

・私流の「」の扱い方

ではここで、私「流」の、
「」がついていない台詞的文章に遭遇したときのやり方をまとめてみましょう。

例えばこのような文章だとしましょう。

彼女はうんと言い、空を見上げた。

地の文ですが、「うん」は明らかに彼女の台詞であると特定出来ます。

こんな場合にどう読むか、これは朗読者のセンスの見せ所だと思います。

私の場合、あんまり短い言葉ならば、
地の文として読むことが多いかなと思います。
短い間に、語り手→人物→語り手と移行するのが、リズムが崩れて聞きにくいかな、と思うからです。
特に、私は台詞はなるたけ「その人物に寄せた声で読みたい」派なので、
台詞に移行するために一間必要になってきます。

彼女は 「うん」 と言い、空を見上げた。

うんのために前後の間を使うよりは、文章をさらりと流したい、という感じですね。

もちろん、この文章でも、
この「うん」がとても大事だと思う場合には、台詞として読む事もあります。
時と場合で柔軟に変えていいと思います。

逆に、

彼女は、うん分かった、私も前を向くよ、ありがとう、と言って空を見上げた。

のように台詞と思われる文章がそこそこ長い場合には、私は台詞として読むことが多いと思います。

なのでまずは、文章の長さで判断することが多い、ということです。
同じ理由で

彼女は「うん」と言って空を見上げた。

という、「」がついている場合でも、
台詞として読まずに地の文として読む、ということをやることがあります。
彼女は、と話者も特定してありますから、
わざわざ台詞にしなくてもいいかな、というような判断ですね。

・物語の視点に目を向ける

ではここで、地の文の形式に目を向けてみましょう。

地の文の語り手が神様視点(主語が私でない)の場合と、
語り手が登場人物の視点(主語が私。太宰治とかに多いですね)の場合で、
また若干表現を変化させている場合があります。

神様視点の場合は、先程書いたような判断基準で読んでいる場合が多いですが、
私視点の場合、ここで一つ表現の選択肢が増えます。

彼女は、うん分かった、私も前を向くよ、ありがとう、と言って空を見上げた。
私は彼女の態度に、言葉とは別な、どことなく物悲しい印象を覚えた。

のような場合ですね。

私視点の地の文の場合、
私はいつも以上に「文章全体が台詞である」と考えて読むことが多いです。
一人の長台詞の中に、何人もの登場人物が出てくるようなイメージです。

この場合、物語の「私」は、
声色を変えて話す事があるか、それが得意かどうか、みたいな事を少し考えます。
日常生活の中でも、
○○がこないだ「☓☓☓☓」とか言ってさー、
のように、「この人がこんな事を言った」という会話は結構あると思います。

そういった場合に、あまり過剰に「演技」して人の台詞を言う事はないように思います。
もちろん、これも語り手の性格によってではあるでしょうが、
演技する場合にしても、
「○○を演じる私」というように、
○○そのもの、という所からは一段低い演技レベルになっている事が多いと思います。

なので、私が一人称の場合、
語り手が「演じる」人物
なのか
人物そのもの
なのかという線引きが出現してくると思います。

私は「語り手が演じる○○」という感じでやることが多いです。
今読んでいる『罪と罰』では、
飲んだくれのおっさんが妻の台詞を語るシーンが結構ありますが、
この場合は、
演技とかあまりしないおっさんが妻の声色を真似て出す女声、という判断をしたりします。
なので、若干汚い声で話したりします。

もちろん、文章によっては私視点でもきっちり演じ分ける事もあります。

・まとめ

要は、何を大事にしたいのか、どう聞こえたいのか、という事を考えて臨機応変に、
というような事でしょうか。

というような感じで、長くなりましたが、
私の場合の「」の考え方でございました。
ありがとうございます。

文章自体の意味が大きく破綻するような事でない限り、朗読は本当に自由だと思うので、
どんどん色んなチャレンジを試してみて下さい。

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